温見村(読み)ぬくみむら

日本歴史地名大系 「温見村」の解説

温見村
ぬくみむら

[現在地名]下松市大字温見

瀬戸せと村の北東大藤谷おおふじたに村北西に位置する村で、末武すえたけ川の上流部にあたる。東は熊毛くまげ八代やしろ(現熊毛町)、北は中須なかず(現徳山市)。徳山藩領。

弘治三年(一五五七)八月二八日付の杉松千代丸知行書立(「閥閲録」所収杉七郎左衛門家文書)に「一、百五拾石 都濃郡内久米郷、但怒久見・世戸両畑除之」とあり、温見や瀬戸久米くめ(現徳山市)の内とされていたらしい。


温見村
ぬくみむら

[現在地名]院内町温見

恵良えら川の支流温見川の中流域に沿って続く谷間の山間部に位置し、東は下恵良村、西は野地のじ村。古くから温見谷とよばれ、上流から温見野ぬくみの奥鍋おくなべ中鍋なかなべ中江なかえ岩下いわした分寺ぶじの小集落からなり、恵良川に架せられた飛石とびいし橋・丸田まるた橋・中鍋橋などの眼鏡橋を渡り、五戸・一〇戸とかたまった階段集落。小倉藩元和人畜改帳では高五五九石余、家数五一・人数二一〇(うち百姓二六・牢人三・名子一二・鍛冶二・塩売二)、牛二八・馬一〇。百姓には庄屋が四名含まれる。延宝八年(一六八〇)には田所組に所属し、人数三〇七(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高五六八石余。文化九年(一八一二)農民一揆では院内谷(原口組)一三ヵ村の一つとして蜂起に参加し、村民二名が逮捕された(小野家文書ほか)


温見村
ぬくみむら

[現在地名]大野市温見

くも川最上流部に位置する。南は美濃国に接し、温見峠・栃木とちのき峠によりそれぞれ美濃国大河原おおかわら(現岐阜県本巣郡根尾村)櫨原はぜはら(現岐阜県揖斐郡徳山村)に通ずる。温見峠には近世初頭、結城秀康により番所が置かれた(越藩史略)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「西四郷」に含まれ、村名は正保郷帳にみえる。同帳によれば畠方のみ五石余。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となった。

村の北部平家平へいけだいらを通り小沢おざわ村に出る山道があり、平将門がかんむり山の戦に負けて小沢を経て温見に来たという伝説がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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