日本歴史地名大系 「下松市」の解説 下松市くだまつし 面積:九〇・二三平方キロ旧都濃(つの)郡の東南部、瀬戸内海の笠戸(かさど)湾に面する。東は熊毛(くまげ)郡熊毛町と光市、北と西は徳山市に接し、中心市街地は切戸(きりと)川の河口に展開する。笠戸湾の東南をふさぐ笠戸島も市域内であるが、現在は島の北端瀬戸(せと)岬と宮(みや)ノ洲(す)の洲鼻(すばな)が笠戸大橋により結ばれる。市の南半は切戸川と末武(すえたけ)川のつくり出す平地が占めるが、その東境は烏帽子(えぼし)岳(四一二・四メートル)・茶臼(ちやうす)山(三四八・九メートル)などがあり、鷲頭(わしず)山(二四三メートル)もそびえる。北半は三〇〇―四〇〇メートルの山地で、川に沿った谷間に集落が点在する。下松の名は大内氏の祖といわれる琳聖太子が、推古天皇の頃この地に来た時、青柳(あおやぎ)浦の松樹に北辰尊星が降臨し、七日七夜輝いて太子を守護したという伝説にちなむ。この北辰尊星は太子により妙見(みようけん)宮として祀られた(現降松(くだまつ)神社・鷲頭(じゆとう)寺)。また琳聖太子が百済王の子孫であると伝承することから、下松は百済津(くだらつ)の転音とする説もあるが(防長地名淵鑑)、下松の史料上の初見は建徳二年(一三七一)に九州に下向した今川了俊の「道ゆきぶり」である。〔原始・古代〕瀬戸内海で笠戸島や大島(おおしま)の半島部(現徳山市)に囲まれた笠戸湾沿岸部は、早くから人が住んでいたらしく、末武川河口右岸には宮原(みやばら)遺跡とよばれる弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡や墳墓が残り、条里制の遺構も確認されている。また末武川扇状地の扇頂部に近い上地(あげじ)遺跡からは後期縄文土器や弥生期の土器片が出土している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下松市」の意味・わかりやすい解説 下松〔市〕くだまつ 山口県南東部,周防灘にのぞむ市。笠戸島を含む。 1939年下松町と久保,末武南,花岡の3村が合体して市制。 54年米川村を編入。中心集落下松は笠戸湾にのぞみ,奈良時代以前は朝鮮交易の重要な港であった。湾岸は 18世紀に干拓が進み,塩の産地,山陽道の市場町として発展。第1次世界大戦後は工業都市として進展し,現在では石油,車両,鋼板,造船などが立地する重化学工業都市となり,周南工業地域の一中心をなす。笠戸湾に面した臨港地帯は工業地,浜堤上は商業地となる。笠戸島とは 70年に笠戸大橋によって結ばれた。重要文化財をもつ花岡八幡宮,降松神社,日天寺などの古刹がある。笠戸島は瀬戸内海国立公園に属する。中央部を JR岩徳線と国道2号線が,南部の海岸沿いを山陽本線と国道 188号線が走る。面積 89.36km2。人口 5万5887(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報