湯屋村(読み)ゆやむら

日本歴史地名大系 「湯屋村」の解説

湯屋村
ゆやむら

[現在地名]中津市湯屋

中津平野の南部、豊前道(上往還)に沿い、西は万田まだ村、北は広い同平野の水田。宇佐宮神人(貫首)湯屋氏の名字の地で、一月一日、修正会における御湯の儀式を行う潔斎の場、御湯殿に関係する地名とみられている。「下毛郡誌」に「古老の伝に、今も湯の壺とて温泉の湧き出でたりてふ跡なり、夏季尚清水湧く、田の字に湯の前、湯の尻等あるは其の名残なりとぞ」とある。宝治元年(一二四七)七月一日の沙弥西阿譲状案(田口文書)に「温屋尻二反」がみえるが、当地に関係があるだろうか。


湯屋村
ゆやむら

[現在地名]小坂町湯屋

落合おちあい村の南にある。南方大洞おおぼら村から北流する大洞川の両岸に、湯屋・小井戸こいど猿沢さるその三集落がある。村名は大洞川東岸に鉱泉が湧くことにちなむ。古くは湯谷と記されたともされる。元禄八年(一六九五)検地帳(小坂町教育委員会蔵)では高一一石余、田五反余・畑四町八反余。「飛騨国中案内」によれば免二割九分五厘、家数二五、うち百姓一九・門屋六。


湯屋村
ゆやむら

[現在地名]智頭町市瀬いちのせ

智頭宿の北方、千代川右岸に位置する。地名は当地に温泉があったことにちなむと伝え、温泉は牛が落ちて死んで以来湯が出なくなったという(因幡志)智頭街道が通り市瀬の茶屋より一七町。その間、当村枝郷中島なかじま集落と湯屋集落の間に「エンチヨほけ」という小坂があり、大雪が降ると牛馬は通行できなかった(同書)。当村は市瀬村の枝郷で、正保(一六四四―四八)以前から同村の内村として成立していたが、正保国絵図には載せられず、元禄国絵図には収載された(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)


湯屋村
ゆやむら

[現在地名]湖東町湯屋

僧坊そうぼう村の東に位置する。主殿寮領押立おしたて保の御湯屋料に充てられていたと推定される。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高六五九石余。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば、男一二三・女一四五、寺社方男三。文化二年(一八〇五)の村明細帳写(押立神社文書)によれば田方三八町余・畑方一町三反、男一〇〇・女一〇四、牛二八、家数四五・土蔵三三・寺二・道場一・氏神一・権現一・神明一、酒屋一・桶屋二。


湯屋村
ゆのやむら

[現在地名]辰口町湯屋

辰口村の東、辰口丘陵のほぼ中央部に位置する。辰口村の温泉が退転したとき同温泉の湯元であった二、三人が移り村立てしたとか(加賀志徴)、今から八〇〇年ほど前自光坊という僧が当地に坊舎を建てたのが村の始まりとかいわれる(辰口町史)。天正九年(一五八一)三月一二日の売券写(加賀古文書)によれば「ゆのや村」九郎右衛門らが上開発かみかいほつ村藤介に持山を売却している。


湯屋村
ゆやむら

[現在地名]相知町大字湯屋

厳木きゆうらぎ川右岸の村。伝説では、かつてこの地に湯が湧き出て、旅人が疲れを癒し、湯谷ゆやとよんだという。口伝に「湯屋三軒、阿弥陀堂一軒」とする。湯屋三軒とは、溝上・山口小山の三家という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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