市瀬村(読み)いちのせむら

日本歴史地名大系 「市瀬村」の解説

市瀬村
いちのせむら

[現在地名]智頭町市瀬

湯屋ゆや村の西、千代川左岸沿いに集落があり、右岸沿いに智頭街道が通る。川中かわなか(現用瀬町)から続いてきた同街道は当村ささヶ峰岐(篠ヶ峰岐・サラサラ歩危)を通るが、山と川とが迫る難所で、大雪が降れば牛馬は通らないという。坂を越えると街道沿いに当村の出茶屋三軒がある(因幡志)。享保六年(一七二一)ここを通った野間義学は因府上京海道記(因州記)に「川向ノ山ニ、亀井殿鹿野ヨリ江戸往来ノ古道有テ、山ノカサナリ五ツ見ル処、帯ノ如クニ道筋見ユル」と記す。この左岸の道は市瀬集落を通り、枝村とり集落から岩神いわがみ村を経て智頭宿河原かわら町、本折もとおり村峰岐、南方みなみがた村を過ぎ、毛谷けだに酒清水さかしみずに至っていたという(初稿八頭郡誌)。枝村は鳥ノ巣のほかにとちはたくち(湯ノ口)向田むかえだ(迎田)郡家こおげがあり、郡家は古代に郡司の館が置かれた地であると伝える(因幡志)

市瀬村
いちのせむら

[現在地名]佐々町市瀬免いちのせめん八口免やぐちめん皆瀬免かいぜめん角山免つののやまめん神田免こうだめん松瀬免まつせめん鴨川免かもがわめん大茂免おおしげめん江里免えりめん

佐々村の北に位置し、市瀬川・江里川などが佐々川に合流する。東に愛宕あたご山・にら岳、西に鷲尾わしお岳があり、江里峠により江迎えむかえ(現江迎町)に通じる。松瀬免の熊野神社は貞和二年(一三四六)の、鴨川の鎌倉神社は文明三年(一四七一)の再建と伝える。南の田原たばるは文明八年に鴨川喜三平が開いた新田といわれる(佐々町郷土史)。江戸時代は平戸藩領田平筋郡代管轄下の佐々四ヵ村の一つ(享保二年「平戸領分郷村付」松浦史料博物館蔵)正保国絵図に「一畝村」とあり、高三七五石余。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳にみえる「一ノ瀬川辺り」は当地で、一里山が築かれていた。

市瀬村
いちのせむら

[現在地名]八幡西区市瀬一―三丁目・市瀬・割子川わりこがわ一丁目・別当町べつとうまち上の原うえのはる一丁目・上上津役かみこうじやく一丁目など

引野ひきの村の東、割子川の上流域に位置する。北は熊手くまで村、南は上上津役村。北東方の前田まえだ(現八幡東区)境に権現ごんげん(坊住山)、熊手村境に帆柱ほばしら山がそびえる。集落は本村のほかに三軒屋さんけんや大空おおぞら切詰きりつめ陣屋じんや別当坂べつとうさか(西部は引野村抱え)などがあった。市瀬は一瀬とも書いた(続風土記拾遺・地理全誌)。小早川時代の指出前之帳では穴生あのお村の枝郷として扱われ、同村に含まれて高付されている。慶長七年(一六〇二)の検地高一九三石余、うち大豆一六石余(慶長石高帳)折尾おりお村と同様に一時期は東蓮寺藩(直方藩)領であった。元禄五年(一六九二)には高一九七石余・反別一六町一反余、家数一九・人数一一八(田圃志)

市瀬村
いちのせむら

[現在地名]那珂川町市ノ瀬

成竹なるたけ村・埋金うめがね村の南にあり、那珂川上流山間部に立地する。東は御笠みかさ平等寺びようどうじ(現筑紫野市)、西は早良さわら板屋いたや(現福岡市早良区)。村名は一瀬とも記され(慶長石高帳など)、由来は南の五箇山ごかやま村へ行くところに川の瀬があったことによるという(続風土記)。「歴代鎮西志」天正一二年(一五八四)一二月七日条には、龍造寺氏に忠誠を誓った筑紫上野介広門の出城の一つとして「一瀬」がみえる。これは一岳いちのだけ城のことであろう。小早川時代の指出前之帳では南畑みなみはた村分に含まれる。慶長七年(一六〇二)の検地高は二二三石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二五三石余、家数四九・社一、人数二六五(田圃志)

市瀬村
いちのせむら

[現在地名]関町市瀬

関宿北西の東海道沿いの村。市之瀬・一之瀬・一瀬などとも書く。天正一二年(一五八四)九月六日付関万鉄斎(盛信)知行宛行状(原正隆氏蔵)に「山川宗左衛門諸(ママ)山林屋敷田畠作(ママ)分等之事、末代一瀬之三郎次郎ニ申付所也、令可知行之状如件」とあり、山川氏の所領などを当村の三郎次郎に与えている。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には一之瀬と記す。

市瀬村
いちのせむら

[現在地名]日田市花月はなつき 市ノ瀬町

秋原あきばる村の東に位置し、西流する市ノ瀬川に並行して山国やまくに道が通る。同道にはいし坂という難所があり(豊後国古城蹟并海陸路程)、路傍には嘉永期(一八四八―五四)に日田の豪商山田常良が行った改修を記念する石坂修治碑(広瀬淡窓撰)が建つ。石坂石畳道として県指定史跡。一之瀬とも記す。慶長六年(一六〇一)の森藩領知目録(佐伯藩政史料)に一野瀬村とみえ、高一九二石余。ただし同年の予州替地御知行所目録(同史料)と題された同様の知行目録では市瀬村とある。慶長豊後国絵図では市ノ瀬村正保郷帳に村名がみえ、田高一〇四石余・畑高三八石余で、ほかに御蔵納秋原村入組地として田二九石余・畑一三石余、同じく藤山ふじやま村入組地五石余があり、夜開やけ郷に属した。

市瀬村
いちのせむら

[現在地名]福井市いち

高須たかす山に源を発した高須川が谷間から平坦地に出る辺り、別所べつしよ村の南方に位置する。村名は正保郷帳にみえ、田方一三八石余・畠方五一石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によると、稲葉采女と大谷綱次郎の相給知行地。

当村でも田頭たのかしら村と同様に赤石あかいし(火打山)で火打石を採掘していたらしく、火打山ひうちやまという字名も残る。

市瀬村
いちのせむら

[現在地名]河浦町新合しんごう

北は津留つどめ村、南は白木河内しらきがわち村に接する。「国志草稿」に「当村ニ小川一筋アリ、此地ニ風蘭多シ」とあり、この小川は一町田いつちようだ川をさしている。慶長国絵図に「市瀬」とみえ、正保郷帳に高一六五石九斗余とある。万治二年(一六五九)石高半減により、一〇三石八斗となった(天草風土考)。壱町田組に属し、庄屋は本多家。元禄一四年(一七〇一)の肥後国絵図変地帳(県立図書館蔵)に古郷帳(正保郷帳)の村名「市ノ瀬村」、古絵図(正保国絵図)の「市野瀬村」を市瀬村に直すと記されている。

市瀬村
いちのせむら

[現在地名]金沢市市瀬町・水元町みずもとまち

小嶺こみね村の南東、森下もりもと川右岸に位置。北東は東原脇原ひがしばらわきばら村。正保郷帳では両原村(東原脇原村)と並記され、高三三九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高八四石、免五ツ八歩、小物成は山役二六二匁・蝋役二匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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