湯野村(読み)ゆのむら

日本歴史地名大系 「湯野村」の解説

湯野村
ゆのむら

[現在地名]福島市飯坂町いいざかまち湯野ゆの飯坂町いいざかまち東湯野ひがしゆの

摺上すりかみ川左岸に位置し、伊達郡に属する。西対岸は上飯坂村で十綱とづな渡で結ばれる。北部山地に発する深沢ふかさわ川・米沢よねざわ川・毛勝けかち川が南流して摺上川に注ぎ、耕地は摺上川上流穴原あなばら周辺の段丘上や米沢川下流に広がる。地内から温泉が湧出し、村名もこれに由来する。東方の増田ますだ村・板谷内いたやうち村・塩野目しおのめ村に囲まれた地域には当村の飛地(湯野村下組)があった。戦国期には湯村ゆのむら郷としてみえ、近世初頭は湯村とも記された。永正一七年(一五二〇)四月二日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に湯村郷とみえ、佐藤孫右衛門が瀬上方から購入した同郷のうち、道繁屋敷一貫文・中窪六百地などが安堵されている。中窪なかくぼの地名は西原にしはら廃寺の東方に残る。天文三年(一五三四)四月には高成田弥太郎が原田助二郎所から購入した同郷のうちなどを安堵された(同月二九日「伊達稙宗安堵状案」同文書)

天文七年の段銭古帳では伊達西根だてにしねとして「ゆのむら」とみえ、段銭は三〇貫文で、伊達西根のうちで最も多い。また同じく伊達西根としてみえる「いつミの目」段銭三貫一一五文は、摺上川と志和田しわだ館跡の間にある湿地周辺を範域としたと推定され、同地には清水しみず清水前しみずまえなどの地名がある。同二二年の晴宗公采地下賜録では、当地の「はら屋敷」が我妻備中に、「シハた屋敷」が飯塚又七に、真光院分が石母田肥前守に、竹の内・さか内・佐竹在家が大塚将監に、山岸将監分が「桜田をんはう」に、板谷内左馬介分が正光寺に、山岸五郎衛門分暮坪屋敷、三郎左衛門分田中内屋敷、菱沼藤左衛門分川原屋敷、山岸四郎右衛門分つしま屋敷、かけゆ左衛門分はら屋敷、菱沼六郎右衛門分小姓屋敷・かハヘ屋敷、湯野村泉分高橋屋敷が瀬上中務大輔に、きり田・ほたひ寺分が高成田左馬允に、飯塚藤四郎手作屋敷が「てんあミ」に、菱沼六郎右衛門屋敷が中野常陸介に、山岸彦左衛門屋敷手作が舟山藤三に、長井三郎左衛門分が嶺刑部などに与えられている。

湯野村
ゆのむら

[現在地名]徳山市大字湯野

夜市やじ川の上流域およびその支流柳瀬やなぜ川流域に集落が点在する山間村。北に黒石くろいし(四三九・七メートル)、南にしろ(四五二・六メートル)がそびえる。西は大谷おおたに(五五八・九メートル)などの山地を境に奥畑おくはた久兼ひさかね(現防府市)、北は藤木ふじき(現佐波郡徳地町)、東から南は馬神うまがみ(現新南陽市)戸田へたの各村に囲まれる。萩藩領で都濃宰判所属。

天正一〇年(一五八二)九月二三日付毛利輝元の村上祐康宛文書(「閥閲録」所収村上太左衛門家文書)に「防州都濃郡湯野之内百石之地」とある。

湯野村
ゆのむら

[現在地名]神辺町湯野

下御領しもごりよう村の西、高屋たかや川の北側に位置し、古代の山陽道が通る。山王山さんのうざん丘陵の東側水田中に弥生前期―中期の大宮おおみや遺跡があり、その南に方八丁ほうはつちようの地名と条里制の遺構がみられる。「和名抄」によると備後国府は芦田郡にあり、現府中市府川ふかわ町付近と推定されているが、下御領に国分寺があることや方八丁の地名から、当地に比定する説もある。

旧版「広島県史」は「湯野は、昔湯の迫より温泉出づ、仍て名づく」というが、中世後期には「由野」と記したらしく、天文二〇年(一五五一)九月二五日付屋葺八郎次郎宛の元之給地打渡状(「福山志料」所引)・弘治三年(一五五七)二月一六日付屋葺次郎五郎給地打渡坪付(同書所引)に「由野」とある。後者には由野内の田畠の所在地として「クカヰシリ・カイツホ・ヒエタ・クハラミソ・金代・由野城」などがみえる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では高九六九石余。福山藩水野家断絶後一時幕府領となったが、元禄一三年(一七〇〇)以降福山藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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