満州映画協会(読み)まんしゅうえいがきょうかい

共同通信ニュース用語解説 「満州映画協会」の解説

満州映画協会(満映)

1937年に設立された旧満州国国策会社。「王道楽土」「日満親善」など日本の国策満州で映画により宣伝するのが目的。45年の敗戦までに100本超の「娯民映画(劇映画)」を製作したほか、「啓民映画(文化映画)」などを多数撮影した。戦後中国共産党接収。組織改編を重ねて「長春電影制片廠(長影)」となった。長影は新中国映画の基礎を築いたことから「中国映画のゆりかご」とも呼ばれ、中国の映画拠点の一つとなっている。(共同)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「満州映画協会」の意味・わかりやすい解説

満州映画協会
まんしゅうえいがきょうかい

1937年(昭和12)8月、当時日本が「満州国」とよんで植民地支配を行っていた中国東北部の新京(現長春)に、「満州国」の国策会社として設立された映画会社。略称「満映」。「満州国」政府と南満州鉄道株式会社が折半出資した。この会社は「満州国」の法律によって、この国における中国語映画の製作と、日本を含む外国映画の輸入配給権を独占した。製作スタッフの多くは日本から行った映画人たちであるが、俳優は中国人(満人とよばれた)を養成して出演させ、脚本家、監督、カメラマンなども徐々に中国人を養成して起用した。1939年には各100坪(約330平方メートル)ほどのステージ六棟を中心とする、当時「東洋一」と称された撮影所が完成し、甘粕正彦(あまかすまさひこ)が理事長に就任した。甘粕は、関東大震災(1923)のときに無政府主義者大杉栄(さかえ)と伊藤野枝(のえ)を殺して有罪となった元憲兵大尉であり、「満州国」をつくるにあたって特務機関の責任者として大いに暗躍した人物である。

 製作した映画はほとんどがたわいのない娯楽作品であり、そのなかにときどき日満親善のプロパガンダを盛り込んだものであった。代表的な作品には、柴田天馬(しばたてんま)脚本・大谷俊夫監督『胭脂(えんし)』(1942)、島津保次郎(やすじろう)脚本・監督『私の鶯(うぐいす)』(1943)などがあり、後者は李香蘭(りこうらん)主演である。李香蘭は山口淑子(よしこ)(1920―2014)という日本人であったが、創立の初期から中国スターとして売り出され、日本で人気が出て、日本に出張して数本のいわゆる「日華親善映画」に、日本男児を慕う中国娘の役で主演した。1945年8月の敗戦と同時に満映の歩みは終わり、甘粕理事長は自殺した。その後この撮影所は、中国共産党の最初の撮影所である東北電影製片廠(しょう)となり、もとの中国人従業員を中心に、日本人元従業員も多数参加して中国映画をつくるようになり、今日に至っている。

[佐藤忠男]

『山口淑子他著『李香蘭 私の半生』(1987・文芸春秋)』『山口猛著『幻のキネマ 満映――甘粕正彦と活動屋群像』(1989・平凡社)』

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世界大百科事典(旧版)内の満州映画協会の言及

【日本映画】より

…こうして38年の国家総動員法公布を経て,第2次大戦の始まった39年,映画法が施行され,映画製作・配給の許可制,映画製作に従事する者(監督,俳優,カメラマン)の登録制,劇映画脚本の事前検閲,文化映画・ニュース映画の強制上映,外国映画の上映制限などが法定化された。この間,いわゆる日華事変の起こった1937年には中国東北部に満州映画協会が,映画法施行の39年には中国南京に中華電影,中国北京に華北電影が,いずれも国策会社として設立されて,国家による日本外地での映画工作が広がっていった。映画法に基づく映画新体制の強化はきびしく,41年の日米開戦ののち,42年,映画会社は東宝と松竹,それに新興キネマ・日活・大都を吸収した大映の3社となり,200以上あった文化映画製作会社は3社に,外国映画輸入会社は1社に統合され,また,映画配給も〈紅〉〈白〉2系統に統合された。…

※「満州映画協会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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