瀬戸村(読み)せとむら

日本歴史地名大系 「瀬戸村」の解説

瀬戸村
せとむら

[現在地名]瀬戸市紺屋田こんやだ町・東拝戸ひがしはいと町・西拝戸にしはいと町・うまじよう町・あずま町・東洞ひがしぼら町・王子沢おうじのさわ町・仲洞なかぼら町・寺本てらもと町・西洞にしぼら町・南東みなみあずま町・中山なかやま町・一里塚いちりづか町・川合かわい町・春雨はるさめ町・祖母懐そぼかい町・かみきり町・仲郷なかごう町・東郷とうごう町・杉塚すぎつか町・前田まえだ町・薬師やくし町・末広すえひろ町・陶生とうせい町・西郷にしごう町・南仲之切みなみなかのきり町・蛭子えびす町・東本ひがしほん町・秋葉あきば町・陶栄とうえい町・萩殿はぎどの町・東茨ひがしいばら町・蔵所くらしよ町・西蔵所にしくらしよ町・西本にしほん町・窯神かまがみ町・銀杏木いちよのき町・西茨にしいばら町・さいわい町・東権現ひがしごんげん町・陶原とうげん町・熊野くまの町・西権現にしごんげん町・西十三塚にしとみづか町・きよう町・東十三塚ひがしとみづか町・安戸やすど町・東安戸ひがしやすど町・道泉どうせん町・滝之湯たきのゆ町・もと町・陶本とうほん町・山脇やまわき町・さかえ町・朝日あさひ町・西谷にしたに町・仲切なかぎり町・背戸側せとがわ町・湯之根ゆのね町・宮里みやざと町・深川ふかがわ町・宮脇みやわき町・新道しんどう町・刎田はねだ町・藤四郎とうしろう町・須原すはら町・いずみ町・西印所にしいんぞ町・東印所ひがしいんぞ町・古瀬戸こせと町・西古瀬戸にしこせと町・東古瀬戸ひがしこせと町・五位塚ごいづか町・下陣屋しもじんや

北・東・南を比高五〇メートル前後の山に囲まれた小盆地で、中央部を瀬戸川が東から西に流れている。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]大瀬戸町瀬戸板浦郷せといたのうらごう瀬戸樫浦郷せとかしのうらごう瀬戸羽出川郷せとはでがわごう瀬戸福島郷せとふくしまごう瀬戸東浜郷せとひがしはまごう瀬戸西浜郷せとにしはまごう瀬戸下山郷せとしたやまごう

現大瀬戸町域の南西部に位置し、西部は外海(五島灘)に臨む。一五六六年(永禄九年)三月一七日のアルメイダ書簡(イエズス会士日本通信)にセトとみえ、セトとユキノウラで反乱が起きたため大村純忠が派兵し、反乱者やその他の者が一つの城に集まったのでこれを包囲し、船二五艘を奪ったという。また平戸から救出のため船一〇隻を送ったが、その結果についていまだ知らせはないと伝えている。江戸時代は大村領の外海そとめに属する。角力すもう灘に臨む要浦で、大村藩管轄の大番所や米蔵および遠見番所が置かれた。また海沿いの往還筋に一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録に瀬戸村とみえ、高九五石余で、田七町四反余・畠一町五反、物成五二石余。同一七年の総検地では高一八〇石余と打出され(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高も同高(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。慶長国絵図に瀬戸として高九五石余とある。慶長高帳では外浦衆の知行で、元和元年(一六一五)長井九郎左衛門の知行が地内に置かれた(大村郷村記)。寛永五年(一六二八)キリシタン詮索の申渡しでは肝煎・問が署名、同一六年に庄屋・問が署名している(「切支丹法度書」大村見聞集)


瀬戸村
せとむら

[現在地名]伊万里市瀬戸町せとちよう

喜須きす村の北方、伊万里湾岸のこの村の波痕や貝殻の出土などを吟味すると、現在標高五メートル近くの等高線が旧海岸線である。江戸時代の干拓地で、正保絵図ではまき島などが海中に描かれている。

小字名に真瀬まぜうら弥五やごうら松蔭浦まつかげうら早里はやり早里崎はやりざき早里浜はやりはま永浦ながうら上浜あつはま新浜しんはま海面ぐんづら瀬戸浜せとはま本瀬戸ほんせとなど海浜に由来するものがある。本土と牧島との間の海峡部にあたる所が早里で、潮汐の流れをとった地名と伝える。唐津領との境界となる吉鐘よしかね川沿いに境搦さかいがらみ番屋ばんやの小字がある。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]大月市七保町瀬戸ななほまちせと

葛野かずの川の上流域に位置する。「甲斐国志」および文化三年(一八〇六)の村絵図(都留市蔵)によれば、葛野川に奈良子ならご川が合流する地点を南端とし、同所から北方へしばらくは同川右岸の狭小な河岸段丘と急峻な山々が村域となる。この辺りでは西方は山々の峰を境としてはやし村・奈良子村、葛野川の対岸は駒宮こまみや村である。さらに葛野川へ注ぐ小河川の一つ「あそう沢」を境として北は葛野川左岸の山々も村域となり、東から北へかけて山々の峰切りで浅川あさかわ村、西原さいはら(現上野原町)と、北から西にかけては小金こがね山・天目てんもく山などの峰を限りとして小菅こすげ(現小菅村)と接している。

文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控によると高一〇七石余。寛文一二年(一六七二)の検地帳(県立図書館蔵)では高一一〇石余、反別は田方はなく屋敷一町二反余、上畑(九斗代)二町四反余・中畑三町余・下畑五町三反余・下々畑五町七反余・見付畑四町五反余で、漆二二束余・桑一一七束余。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]千倉町瀬戸

白子しらこ川合かわい久保くぼ三村の南、瀬戸川右岸に位置し、東は海に面する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高九七四石余、うち田方四五一石余。里見氏給人領。正保郷帳では旗本大久保忠時領三二一石余(寛永五年ないしは同一〇年から)・同大久保教勝領九斗余(寛永一〇年から)・譜代大名三枝守昌領六二八石余(寛永一五年から)の三給で、田高四二八石余・畑高五二二石余。ほかに観音金連(金仙)院領四石・円明えんみよう院領一〇石。三枝家領は明暦元年(一六五五)上知され、その内の一部が元禄一〇年(一六九七)旗本松平定之に与えられた(「寛政重修諸家譜」など)。元文村高帳では幕府領一〇一石余・大久保家領(二家で高は同前)・松平家領五二六石余となっており、ほかに金仙きんせん寺領一〇石余。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]印旛村瀬戸

南は印旛沼に面し、東は山田やまだ村、西は鎌刈かまがり村。印旛沼対岸の土浮つちうき(現佐倉市)と結ぶ瀬戸渡があり、佐倉方面から常陸方面へ向かう交通の要地。同渡は水上三九〇丈とされる(佐倉風土記)。佐倉藩公認の馬継場でもあり、関宿せきやど(現関宿町)方面に至る街道の中継地であった。元和三年(一六一七)五月二六日の知行宛行状に村名がみえ、瀬戸・師戸もろと吉田よしだ三ヵ村の一千一五二石が旗本河口(川口)領となっている。承応二年(一六五三)に検地が行われたが、その際にも同領(「田方検地帳」瀬戸区有文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分でも領主は変わらず、高四七六石余。同一四年佐倉藩領となり幕末に至る。元和四年の野論一件訴状(石橋家文書)によると鎌刈村と入会地瀬戸野の草刈をめぐって争論が起き、慶長七年(一六〇二)の検地時の境界を確認したが、その後慶安三年(一六五〇)、明暦二年(一六五六)にも争論となった(同文書)


瀬戸村
せとむら

[現在地名]豊岡市瀬戸

円山まるやま川河口部左岸、小島おしま村の北に位置し、西は美含みくみ田久日たくい(現竹野町)、北は日本海、東は狭い水路を隔てて津居山ついやま村。この水路は但馬開発神話の開削溝に比定され、大永四年(一五二四)八月日の沙門某出石神社修造勧進状(神床文書)の「瀬戸切開」は当地をさすとされる。文明三年(一四七一)成立の「大須賀時基郡境記」には、田久日との境について、「瀬戸と田久日との郡境の事、谷は、一町七間の石垣か限、谷はなめらの清水、下は谷わり、磯は要か岩、沖にも封爾ほうじあるへし、十里とも出しは申すとも一里二里也、沖は一里半、東海は一枚なり」と記される。

中世は気比けひ(気比水上庄)に属し、天正九年(一五八一)二月二六日付の気比庄浦々網漁諸役書上(瀬戸区有文書)に、「一、瀬戸村之事、つり(釣)之事ハ不及申、諸あみ(網)を仕候ニ付て、毎年あみの年貢毎月さいれう(菜料)、其外色々の納所等仕候事、分明候」と記される。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]都幾川村瀬戸

関堀せきぼり村の南西、瀬戸川(中川)流域の山間に位置し、東は馬場ばんば村、西は大附おおつき村。玉川たまがわ領に属し、いわゆる妙覚みようかく郷八ヵ村の一つ(風土記稿)。田園簿によると田高七〇石余・畑高二七石余、幕府領。ほかに紙舟役二五〇文が課せられていた。元禄郷帳では高一五七石余。国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤領。その後、三卿の一、清水領となったが(明和元年「村明細帳」大野家文書)、「風土記稿」成立時には幕府領。幕末の改革組合取調書では再び清水領。

前掲明和元年(一七六四)の村明細帳によると高一五六石余で、家数四六。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]尾口村瀬戸

手取川と支流尾添おぞう川の合流点南東に位置し、南は女原おなはら村。集落は尾添川左岸の河岸段丘上にある。越前国正保郷帳に大野郡所属として村名がみえ、田高二石・畑高三石余。ただし正保郷帳の加賀国石川郡にも村名がみえ、高四八石余、田三反余・畑二町九反余、免二ツ八歩とあり、これは尾添川対岸の加賀藩領同郡木滑きなめり(現吉野谷村)での出作による越高分と考えられる。寛文九年(一六六九)この四八石余をもって木滑新村が設置されている。なお当村は、前年に越前福井藩預地から幕府直轄領となるが、これを契機に当村と尾添村の出作民は加賀藩の許可を得て能登国鳳至ふげし山是清やまこれきよ(現門前町)へ移住し、当村からは家数一〇・人数三九が移転している(「白山争論記」森田文庫)


瀬戸村
せとむら

[現在地名]細江町中川なかがわ

石岡いしおか村の南東に位置する。瀬戸の名は、南部の三方原北端の丘陵と北部の山林が迫る谷を都田みやこだ川が西流する地勢にちなむという(「遠江国風土記伝」など)。永禄一〇年(一五六七)一〇月一三日の今川氏真判物(瀬戸文書)によると、氏真が瀬戸宝久に安堵した永代買得地のなかに「都田瀬戸各半名」がみえ、都田(現浜松市)と瀬戸は本銭三〇貫文で買得され、すでに井伊直盛の安堵の袖判を受けていた。瀬戸方久(宝久)は当地を舞台に活躍した銭主で、井伊谷いいのや(現引佐町)を中心に買得による土地集積を進め、弘治二年(一五五六)井伊氏の直轄地と思われる「祝田鯉田」の年貢納入を請負う代官にも任じられている(同年一二月一八日「井伊直盛書状」・同年「井伊直泰坪付」蜂前神社文書)


瀬戸村
せとむら

[現在地名]佐久市大字瀬戸

北は火山灰台地の断崖がほぼ東西に走る。志賀しが川が東北方からややS字形に貫流して西耕地にしこうちに流れ、内山うちやま川と合し滑津なめづ川となって千曲川に注ぐ。集落は本郷ほんごうと西耕地の二つからなる。本郷は更に瀬戸中せとなか瀬戸東せとひがし・瀬戸南・八反田はつたんだに分れる。

永正一七年(一五二〇)二月、大井玄岑・同隆景が佐久郡大井法華堂ほつけどう源春に所領を安堵した安堵状(大井文書)に「瀬渡之内法花堂分、如前々御知行相違あるべからす候」とあり、「瀬渡」とも記した。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]野田市瀬戸・上灰毛かみはいげ

三ッ堀みつぼり村の南東、利根川右岸に位置する。西はさん沼を挟んで三ヶ尾村。東方には大黒だいこく洲と称する利根川の中洲が形成されていた。本村とは三ッ堀村を挟んで北に離れた地に上灰毛村があり、同村は当村のうちであったが一村として扱われる場合もあった。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。貞享元年(一六八四)の旗本一色直房の遺言書(流山市史研究)では直房の長男直与に分与された本田のうち瀬戸村とみえ、弟直政に分与された新田のうちに灰毛村がみえる。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]下松市大字瀬戸

南流する末武すえたけ川とその支流なる川沿いに集落が点在するが、村域の大部分は山地である。南は山田やまだ生野屋いくのや、東は大藤谷おおふじたに、西は譲羽ゆずりは(現徳山市)の各村。徳山藩領。

弘治三年(一五五七)八月二八日付の杉松千代丸知行書立(「閥閲録」所収杉七郎左衛門家文書)に「一、百五拾石 都濃郡内久米郷、但怒久見・世戸両畑除之」とあり、瀬戸は温見ぬくみとともに久米くめ(現徳山市)の内とされていたらしい。

慶長五年(一六〇〇)の検地帳では瀬戸村として総高二四七石九斗七合、同一五年の検地帳では瀬戸とあり高五二〇石余、うち田方が三五町余で四二四石余、畠方が二八町余で六八石余、百姓屋敷五三とある。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]上浦町瀬戸

現上浦町の最南端に位置する。東は鼻栗はなぐり(鼻繰)瀬戸に臨み、西南は山を負い、北は甘崎あまざき村に接する。集落は、北東向きの谷の出口に東向きに立地している。この集落とやや離れて島の南岸に出走ではしり下坂しもさかの二つの出村をもっている。鼻繰瀬戸に臨んでいるため鼻繰村とも称せられた。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「瀬戸村 日損所、芝山有、林少有」とみえ、村高は一四七石八斗八升である。元禄四年(一六九一)ケンペルは「江戸参府紀行」に、鼻栗瀬戸を通過した時の模様を次のように記している。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]鹿児島市黒神町くろかみちよう

桜島の南東部に位置し、東端に瀬戸崎がある。西はわき村、北は黒神村。元亀二年(一五七一)肝付兼亮・伊地知重興・根占重長・伊東義祐の兵船約三〇〇艘がむかい(桜島)、鹿児島、滝ヶ水(現鹿児島市竜ヶ水)などを襲撃した際、藤野ふじの(現桜島町)に陣を構えていた島津家久は肝付方の兵船が滝ヶ水から瀬戸村方面に向けて撤退するのを遠望し、兵を率いて瀬戸村に駆けつけ、瀬戸海峡を南下しようとする肝付方の兵船を攻撃した。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]今庄町瀬戸・いもだいら

日野川の支流田倉たくら川の最上流にある山村。西は小倉谷おぐらたに村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「たくり部都部べとべ郷」に含まれ、寛永元年(一六二四)七月一五日付越前国府中三国領知行帳(佐久間家旧蔵文書)に村名がみえる。正保郷帳によると田方一三五石余・畠方一九四石余。天保郷帳では元文・宝暦の大水のため一三六石余を減ずる。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領になるが、明和元年(一七六四)以降三河国西尾藩領。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]大栄町瀬戸

六尾むつお村の南東に位置する。拝領高は五四八石余。藪役銀五匁を課されており(藩史)、鵜殿氏の給地であった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高六〇〇石余、竈数三〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六五七石余、竈数八〇。「在方御定」享保四年一〇月一五日条によれば、由良ゆら村までの川船による道法は一八町五〇間で、由良御蔵への年貢米の搬送に要した運賃は一俵につき二合であった。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]城端町瀬戸

二ッ屋ふたつや川右岸の谷間に位置し、東は大鋸屋おがや村の大谷島おおたにじま、南は二ッ屋村、北は盛新もりしん村と接し、西は二ッ屋川を隔てて山地となる。元和五年(一六一九)の家高新帳には「セと」と記され、せと与に属し、役屋数八。正保郷帳では高二三九石余、田方一四町九反余・畑方一町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五六石、免六ツ四歩、小物成は山役一四五匁・蝋役七匁・牛役三〇匁(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)能美組、天保一〇年(一八三九)以降山田組に属した。嘉永六年(一八五三)の村鑑帳(菊池家文書)では家数二四・人数一三四(男六七・女六七)、馬一、おもな稼は日用・駄賃・杪柴・炭焼・石灰・苧・蚕・ぜんまい売出しなど。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]下部町瀬戸

芝草しばくさ村の南東、西八代台地の南東端に位置し、堂葉ときわ川支流の反木そりき川流域の沖積地と河岸段丘および山腹に立地する。同川を当地では瀬戸川とよび、村名は川が大きく曲流し、川幅の狭い流れの様子に起因するという(甲斐国志)。慶長古高帳では高一四石余、幕府領、ほかに方外ほうがい院領五石。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高五四石余。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]中津川市瀬戸

高峰たかみね(九四四・七メートル)の南斜面と木曾川の段丘上に立地し、「新撰美濃志」は「瀬戸村は岐蘇川を隔てゝ落合の北にあり」と記している。落合おちあいのほか南沢みなみさわ山・富士見ふじみ台などの木曾山脈の一五〇〇メートル級の山々が眺望できる。近世は苗木藩領。慶長郷帳では高一〇八石余。正保郷帳では田方九六石余・畑方三六石余で、ほかに新開高三一石余がある。寛政八年(一七九六)の戸口は四四戸・二〇八人(「手控秘書」大山文書)。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば高三〇七石余、反別田二四町九反余・畑二町二反余、新田高三石余・反別三反余。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]名立町瀬戸

飛山ひやま村の北、名立川対岸は西蒲生田にしかもうだ村。道に沿って細長く集落が続き上瀬戸・下瀬戸に分れる。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高七二石六斗余、同所改出高四石六斗である。天和三年郷帳に高七九石八斗余とあり、ほかに瀬戸分と注記された瀬戸・飛山両新田、高四一石五斗余がある。明治一三年(一八八〇)には瀬戸村・東飛山村は瀬戸飛山新田を分割合併している。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]高知市瀬戸・瀬戸西せとにし町・瀬戸東せとひがし

御畳瀬みませ村の北西にある半農半漁の新田村。南は長浜ながはま村で東は浦戸うらど湾に面する。高知城下より横浜よこはま村を経て長浜村に至る往還が村の中央部を通る。吾川あがわ郡に属し、「土佐州郡志」は「東西五町余南北十町余、有戸六、此処嘗庶人播磨屋者、披榛莽為田畝」と記す。村名は天正一六年(一五八八)の長浜地検帳にみえる。元禄地払帳には「長浜之内 瀬戸村」とみえ、新田のみで二五九石余。すべて貢物地となっている。また村内に町が成立していたようで、同帳横浜村の項に「瀬戸町庄や三良兵衛給」とみえる。しかし町の様子は不明。明治三年(一八七〇)の郷村高帳では横浜村と合石で記され、新田高は五七一・五二八石。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]下呂町瀬戸

三ッ淵みつぶち村の北、飛騨川東岸、飛騨街道沿いにある。村名は当村字占代うらじろでは飛騨川両岸に大岩壁が立ち、川幅が狭くなって自然の石門をなすことによるとされる(斐太後風土記)。慶長一〇年(一六〇五)五月二三日の実蔵坊飛騨檀那目録案(経聞坊文書)に「せと喜八」とある。元禄飛騨国検地反歩帳で下原しもはら郷として村名がみえ、高三石余、田二反余・茶畑八反余。「飛騨国中案内」によれば免三割三分六厘、家数六。松のある宮谷山・池ノ平山は普請山、田之平山は家木山となっていた(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)。天明八年(一七八八)の村明細帳(同研究所蔵)によれば高六石余、家数八・人数六一、馬三。


瀬戸村
ひのせとむら

[現在地名]福光町樋瀬戸

七曲ななまがり村の南西、打尾うつお川の西岸に沿った谷間にある。日瀬戸とも記されたらしい。元和五年(一六一九)の家高新帳には「ひのセと村」とみえ、左次兵衛組に属し、役家数二二。正保郷帳では高八〇石余、田方七反・畑方四町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八五石、免五ツ、小物成は山役六九匁・蝋役六匁・炭役八一二匁・栗役八分。その後元禄一三年(一七〇〇)の畑直高六斗余と新開高五斗余が加わった(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には大西先組に属し、家数五七・人数二七〇、馬八(「大西先組覚帳」福光町立図書館蔵)。文政八年(一八二五)には太美組、天保一〇年(一八三九)以後は山田組に属した。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]大山町瀬戸

熊野くまの川の支流くろ川の谷間が最も狭い部分にあたり、川の瀬が激しいので瀬戸という地名になった。南は石淵いしぶち村、北は日尾ひお村、東の対岸に馬瀬うまのせ村がある。正保郷帳の高四四石余、田方八反余・畑方二町一反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四八石、免五ツ六歩、小物成は山役九三匁・炭役一〇匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)によれば、貞享元年(一六八四)の川崩れで二三石の減石があり、草高二五石となる。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]鏡野町瀬戸

東と南は竹田たけだ村、西は真加部まかべ村・小座おざ村、北は土居どい村に接する平地小村落。慶長七年(一六〇二)の小早川秀詮朱印状(黄薇古簡集)によれば、下方覚兵衛は「せと村内」の五一三石余など計一千二〇〇石を与えられている。正保郷帳に高一四三石、うち田方一二六石余・畑方一六石余とある。「作陽誌」では家数一三・人数六一。女山めんやま小簑こみのの二ヵ所に堤坡がある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高三七石余、開高二三石余。天保五年(一八三四)の五人組人別帳(中島文書)によれば家数一六・人数八七、うち男四六・女四一で、このうち本百姓一三軒・人数七一、うち男四〇・女三一、名子三軒・人数一六、うち男六・女一〇、牛一〇。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]いわき市瀬戸町

曲流する蛭田ひるた川上流にあり、東下流は白米しろよね村、北西上流は山玉やまだま村、南東は酒井さかい村。菊多きくた郡に属する。近世の領主の変遷は磐城平藩領から元和八年(一六二二)窪田藩領、貞享元年(一六八四)以降幕府領だが、幕末には磐城平藩領(旧高旧領取調帳)。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に「せとおたま村」とあり、高四四三石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高三二四石余で、ほかに小玉村が記され「高瀬戸之内」とある。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]鳥屋町瀬戸

眉丈びじよう山系の西側にあり、二宮にのみや川の支流伊久留いくろ川左岸の河岸段丘上に集落がある。地名は往古高麗人が渡来して当地に陶器の製法を伝え、瀬戸という者が製法を広めたことに由来するといわれ(鹿島郡誌)、山麓の各所に須恵器の古窯跡が散見される。天正八年(一五八〇)から長連竜領で、同氏は同年一一月二三日一族の長次郎左衛門尉に、瀬戸村にあった家臣平大和守の給分である五〇貫文のうち三千疋(三〇貫文)を新たな知行として与えている(「長連竜判物写」長文書)。文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳によると高二六〇石余。


瀬戸村
せどむら

[現在地名]土佐町瀬戸

瀬戸川の上流域、南川みながわ村の南西に位置する山間の村。北西に稲叢いなむら山がそびえる。「土佐州郡志」によれば東西二里余、南北一里余で、小村に下瀬戸しもせど村・黒丸くろまる村がある。もり郷の一。天文一三年(一五四四)一二月日付の吉田孝頼書状(「蠧簡集」所収西内家文書)によれば、当地は「瀬戸黒丸両名」に分れ、西内氏が領有していたが、当時本山氏と戦っていた長宗我部氏家臣吉田氏が西内氏に忠誠を求めている。なお「蠧簡集」の注に吉田孝頼は井口いぐち(現高知市)城主吉田周孝かとある。天正一五年(一五八七)の森村地検帳では「瀬渡名」「同名黒丸」とみえ、検地面積二町三反余、うち屋敷分一町九反余・畠分四反余。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]前原市瀬戸

川付かわつき村の西に位置し、北は松国まつくに(現二丈町)、西は波呂はろ(現同上)。文明一〇年(一四七八)一〇月一三日の大内政弘下文写(「正任記」同月一八日条)に「怡土郡世戸村」とみえ、宇野将監の所領であった当村六町が岩屋いわや(現太宰府市)在城料として古曾正光に与えられている。天文一五年(一五四六)四月、当村の天下天神社(現天降神社)の社殿が原田隆種・西豊国によって造立された(太宰管内志)。文禄四年(一五九五)一二月に「せと村」五七五石余などが小早川秀秋に与えられている(同月一日「豊臣秀吉知行方目録」教行寺文書)


瀬戸村
せとむら

[現在地名]桂川町瀬戸

寿命じゆめい村の北東に位置し、村内を土師はじ(現泉河内川)が流れる。天明元年(一七八一)に寿命村から分村したとされる(地理全誌)。石高書上帳案の郡帳高は二〇二石余。村内を長崎街道が通り、土師川には瀬戸渡があった。参勤交代で街道を往復する大名行列も同所で川を渡った(歴史の道調査報告書「長崎街道」)。当初長崎街道は当村を通っていなかったが、元禄国絵図で村内を通る道筋が確認でき、この頃までに変更されたとされる。長崎街道に沿う瀬戸鼻せとはなに追分があり(前掲長崎街道)、秋月(現甘木市)に通じる往還の分岐点となっていた。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]瀬戸町瀬戸

すな川の東側小盆地で、鉄砲てつぽう(一六六・一メートル)北西麓にある。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)物理もどろい保のうちに村名がみえ、寛永備前国絵図では高四五二石余。「備陽記」によると平場の集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程三里二〇町、田畠二七町一反余、家数六〇・人数三五四。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」によれば直高五四四石余、蔵入と家臣四名の給地。田高三〇七石余・一八町四反余、畑高九〇石余・九町九反余、物成合計一九九石余、開田畑高一六石余・一町五反余・物成三石余、新開畑高八升余・二畝余。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]吉良町瀬戸

北は須美すみ川をもって花蔵寺けぞうじ(現西尾市)と境し、東は寄名きな山をもって善明ぜんみよう(現西尾市)と境し、南は駮馬まだらめ村、西は岡山おかやま村に接する。寛永(一六二四―四四)の頃松平右衛門大夫正綱領、寛文(一六六一―七三)の頃吉良上野介領、元禄一六年(一七〇三)幕府領、宝永七年(一七一〇)旗本諏訪若狭守領。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]作東町瀬戸

なまず村の北、吉野よしの川右岸に立地し、南東は豊野とよの村。永仁三年(一二九五)四月二二日の記録所注進状(壬生家文書)に「江見庄内世戸村」とあり、当地をめぐって兼淳宿禰と実種朝臣が争っている。慶長一五年(一六一〇)の江見景房借用状(江見文書)では、景房は瀬戸村の田畑五町三反余を先祖系図巻物一通などとともに抵当として江見秀清らに渡置いている。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]熊野市井戸いど

井土いど村の西北、井戸川上流の小盆地に位置し農林業の集落。慶長六年(一六〇一)の検地では井土村の内に含まれる。瀬戸村は「紀州新宮領分見聞記」に「南向、家数二十軒、高五十九石五斗二升七合、井土境迄二十五丁、但し井土瀬戸境なし、元井土より分れ在」と記される。


瀬戸村
せとむら

[現在地名]神岡町瀬戸

西の下之本しものもと村から入り、一段と高い傾斜地に位置する。「飛騨国中案内」では瀬戸は入村で、行詰りの村とあり、東の和佐府わさふ村へは番所前を通り東北に行く。元禄飛騨国検地反歩帳では高原たかはら郷に属し、高一石余、田八反余・畑二反余。「飛騨国中案内」では免二割三分一厘余、家数二は百姓、家作は萱葺。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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