箱崎村(読み)はこざきむら

日本歴史地名大系 「箱崎村」の解説

箱崎村
はこざきむら

[現在地名]芦辺町箱崎・瀬戸浦せとうら

国分こくぶ村の北に位置する広域の村。西部以外は玄界灘に臨み、南西部を谷江たにえ川が流れ瀬戸浦の入江に注ぐ。根柢もとのかぶ山に箱崎八幡宮が鎮座し、「延喜式」神名帳に記される壱岐郡一二座の一つ「月読神社」に比定する説や、「高御祖タカミオヤノ神社」とする見解がある。弘仁六年(八一五)壱岐に異賊が襲来したため当地の「やかしら」など二ヵ所に関が置かれたという(壱岐名勝図誌)。朝鮮半島への出兵では平戸の松浦鎮信に従軍した壱岐城代松浦信実の軍勢のなかに当地の立石甚内・立石仁右衛門橘重・日高十左衛門重時・佐野十太郎・山本弥三郎・吉木吉兵衛らがいたという(壱岐国続風土記)

慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録に箱崎村とみえ、高一千五四石余。慶長国絵図にも村名が記され、正保国絵図では高七三一石余。承応元年(一六五二)谷江潟の開発で長さ九〇間・横四間の土井が築かれ、田地二町余が開かれた(松浦家世伝草稿)。また田添平江たいそうひらえ(大左右平江)に一五町を開いたとされる(芦辺町史)。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では箱崎村として谷江免・新田尾にたお免・中山なかやま免・本村ほんむら免・諸津もろつ免・江角えすみ免・広石ひろいし免・大左右たいそう免・名切なきり免・釘之尾くぎのお免などがあり、これらの地は内野久左衛門・日枝三之助・久家孫左衛門・石橋三郎右衛門・日高久助・平松権兵衛・近藤衛門・園田孫左衛門・中尾源兵衛・隈新助・豊益弥七兵衛・渡辺惣右衛門・呼子七左衛門・武末藤左衛門・本城庄左衛門・吉富平右衛門・添田市右衛門・長島甚介・中野鳥兵衛・長嶺伊右衛門・大北弥太郎・西谷兵衛ら多数の給人の知行であるが、それをさらにその配下の者に分割して請作させている場合もあった。

箱崎村
はこざきむら

[現在地名]東区箱崎一―七丁目・筥松はこまつ一―四丁目・原田はらだ一―四丁目・松田まつだ一―三丁目・筥松新町はこまつしんまち二又瀬新町ふたまたせしんまち・二又瀬・馬出まいだし六丁目・多の津たのつ五丁目・松島まつしま一―三丁目・郷口町ごうぐちまち社領しやりよう一―二丁目など

表粕屋おもてかすや郡に所属。多々良たたら川河口部の南、博多から北東へと延びる砂嘴上に位置し、南は那珂なか馬出村。古来筥崎宮の鎮座地として知られる。唐津街道が通り、箱崎宿は筑前二一宿の一。「続風土記」・天保郷帳は原田村を枝村とする。天正一五年(一五八七)五月の九州平定後、豊臣秀吉は箱崎において九州大名の所領配分を行い、キリシタン禁令を発した(豊前覚書)。小早川時代の指出前之帳では箱崎村の田一四八町二反余(分米一千六四七石余)・畠三五町余(分大豆二〇七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二千三九八石余、うち大豆二八七石余、筥崎宮領分五〇〇石、うち大豆九〇石余(慶長石高帳)。慶長一〇年八月二五日の黒田長政掟書(新訂黒田家譜)に箱崎とみえ、浦として把握されていた。元禄五年(一六九二)には高二千七四三石余・反別二〇六町八反余、家数二六九・寺一四・社一、人数二千一六五。

箱崎村
はこざきむら

[現在地名]釜石市箱崎町

細長く洋上に突き出す箱崎半島を占める。東・南・北の三方は海、南東方洋上に三貫さんかん島が浮び,西は半島基部にあって鵜住居うのすまい村・両石りよういし村。北側に箱崎・白浜しらはま、南岸にくわノ浜・苅宿かりやど(仮宿)大苅宿おおかりやど(大仮宿)などの集落がある。苅宿の背後の山上には江戸時代初期から唐船遠見番所が置かれ(正保国絵図)、絶好の海上見張場所として明治維新まで存続した。元和二年(一六一六)の南部利直請取状(盛岡浜田文書)によると、慶長一九年(一六一四)大槌御蔵納米として箱崎村は三ツ四分半にあたる七四駄一斗三升五合、桑ノ浜村は二ツ八分半にあたる六駄片馬七升を納めた。

箱崎村
はこざきむら

[現在地名]伊達町箱崎

伏黒ふしぐろ村の南に位置し、阿武隈川の西対岸はおか村、南は信夫しのぶ瀬上せのうえ(現福島市)。南部に微高丘陵があるが、ほとんどは平坦地。阿武隈川の氾濫原にあたる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四三〇石余。近世初期の邑鑑によると免二ツ一分、家数三二(役家一一、肝煎・小走二、山伏・脇家一九)、人数一〇四、役木として桑・楮が少しある。米沢藩領時代の古高一千二六石余、幕府検地による新高八一〇石余(古高新高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報