日本歴史地名大系 「瀬戸田町」の解説
瀬戸田町
せとだまち
中世は海運業の拠点として栄えた地で、応永二九年(一四二二)一二月二日付の生口船過書案(東大寺文書)によると、生口船と称した小早川生口因幡入道公実の船が、海上諸関の関銭を免除されている。しかしその後「瀬渡田等商船」が多数、生口船と偽って兵庫南北両関を通過したことが発覚し、同三〇年三月一七日には、幕府は先に因幡入道に与えた特権を剥奪した(「室町将軍家御教書案」同文書)。また、兵庫北関入船納帳(同文書)によると、文安二年(一四四五)の一年間に、兵庫北関に入船した瀬戸田船は六九艘にのぼり、積載品は備後塩・米・小麦・鉄などであるが、備後塩が圧倒的比重を占める。これらのことからも中世の瀬戸田船の活躍が推測できる。
近世の瀬戸田町の形成は、中世の生口庄の町屋に由来する。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳には生口島二四六六・五一石、同村三四・二石とある。
瀬戸田町
せとだちよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報