瀬戸郷(読み)せどごう

日本歴史地名大系 「瀬戸郷」の解説

瀬戸郷
せどごう

[現在地名]東彼杵町瀬戸郷

千綿ちわた宿の南東にある千綿村内の郷村。嘉暦四年(一三二九)七月三日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録(正慶乱離志裏文書)にみえる世戸又五郎・同七郎は当地を拠点とする者であろう。地内にキリシタン墓碑(県指定文化財)がある。古い由緒をもつ大神宮はキリシタンに焼かれたと伝え、社前に流鏑馬走り止り石が残る。江戸時代、瀬戸には庄屋屋敷が置かれ、横目役所も片山かたやまにあった。享和二年(一八〇二)菱屋平七は千綿村より「瀬戸村」に着き、「道傍の人家五六軒、商家あれども茶屋はなし」と記し、それより「ゑのくし村」に至っている(筑紫紀行)


瀬戸郷
せとごう

戦国期の郷で、現在の瀬戸一帯に比定される。永禄二年(一五五九)二月一九日の穴山信君判物(方外院文書)に「瀬戸」とみえ、帯金美作守を取次として穴山信君に提訴していた方外ほうがい院領の瀬戸(郷)については棟別銭賦課を免許し、その他の諸役については穴山氏手形によって公事の納入を命じるとした。なお手形によらない諸役賦課や違乱があれば、穴山氏へ提訴するように伝えている。同六年と推定される一一月二五日の某印判状(同文書)では、方外院領瀬戸村について先年の帯金美作守の取次による穴山信君の約束事項が再確認されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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