狐島村(読み)きつねじまむら

日本歴史地名大系 「狐島村」の解説

狐島村
きつねじまむら

[現在地名]穂高町大字北穂高きたほたか 狐島

高瀬たかせ川とからす川の間に挟まれた島状地形の村。明応一〇年(一五〇一)の三宮穂高社御造宮定日記(穂高神社蔵)に「狐島」の地名がみえる。洪水に浸されることが多く、安政二年(一八五五)には村高五三九石余のうち一九七石余(三六・五パーセント)荒地引になっている。

大昔は狐島の辺りは、高瀬川と穂高川の河原であった。この河原の島々しましまに狐が住んでいたので狐島といったという。また小岩岳こいわたけ城の東のはしを守る見張人(監視者)が島々に住み敵を監視していた。この見張人を狐といったので、狐島の地名ができたともいう。氏神には白狐神を祀ってある(南安曇郡誌)

元禄一五年(一七〇二)八月、高瀬川が出水し、青木花見あおけみ(現穂高町)加衛門かえもん山から切れ込み、村の西部を押し流して穂高川に入り、ここを一〇年間流れていた。


狐島村
きつねじまむら

[現在地名]和歌山市狐島・島橋しまばしひがしちよう島橋西しまばしにしちよう島橋南しまばしみなみちよう島橋北しまばしきたちよう

名草なくさ郡に属し、野崎のざき村の西北に位置し、淡路街道が通る。西は土入どうにゆう川を限り、川を隔てて松江まつえ村に対する。土入川沿いの地域を島橋というが、松江村と結ぶ橋の名称にちなんだものである。地名は、古代、紀ノ川が西に直流して河口が大きく開いていた頃、当地は河口部にあった中洲の一つで、形が狐に似ていたことによると伝える。周辺の地名・地質などをみても往時の様相がうかがわれる。開発は中世以降であろう。

地名がみえる早い例は文和三年(一三五四)八月三日の足利尊氏袖判下文写(森家文書)で、加納かのう村地頭職半分などとともに「狐島五郎左衛門入道跡」が勲功の賞として栗栖六郎左衛門尉国実に宛行われている。


狐島村
きつねじまむら

[現在地名]伊那市大字伊那部いなべ 狐島

天竜川に合流する三峰みぶ川の河口の北部にあたり、西は天竜川、北から東にかけては東伊那部、南はかみ下新田しもしんでんの村々に接する。天竜川畔の村で、対岸は小沢おざわ川の河口にあたり古来水害が絶えなかった。

天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は上、村高は「百六拾六石七斗六升六合 広面狐島」とあり、もう一ヵ所に村位は上、「千四百四拾弐石九斗三升四合 殿島狐島」とある。広面ひろおもては広表と表記する現在地名が残っているが、この村名についてはつまびらかでない。


狐島村
きつねじまむら

[現在地名]砺波市狐島

東中ひがしなか村の南にあり、北西は下中しもなか村、南は神島かみじま村。村名はこの辺りは昔は野原で狐屋敷という所があり、同所に村立てしたことから狐島と称したと伝える(貞享元年「村名由緒書上」加越能文庫)。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、道明村組に属し役家数四。狐島新村も同組に属し役家数三。正保郷帳では高四八九石余、田方二六町余・畑方六町五反余、新田高二五九石余。


狐島村
きつねじまむら

[現在地名]湯津上村湯津上

湯津上村の北西金丸原かねまるはら丘陵寄りにある。同村字田島たじま一帯にあたる。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「喜連島」一〇四石があり、以後大田原藩領(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。寛文四年(一六六四)の大田原藩領知目録には狐島村とみえる。慶安郷帳では田八九石余・畑一四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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