等々力村
とどろきむら
[現在地名]世田谷区等々力一―八丁目・玉堤一―二丁目・玉川田園調布一丁目・東玉川一―二丁目・深沢一丁目・同三―五丁目・同七―八丁目・奥沢六―八丁目・尾山台一丁目・同三丁目、神奈川県川崎市中原区等々力
野良田村の東にあり、荏原郡に属する。多摩川を越えて対岸にも村域が広がり、橘樹郡の小杉村(現中原区)・久地村(現川崎市高津区)に接している。奥沢村本村の南(字諏訪分)と奥沢新田村の南にそれぞれ飛地があり、また深沢村内にも飛地があった。古街道(鎌倉街道)が衾村(現目黒区)から入り下野毛村へと抜け、谷沢川が西部を南へ流れる。中央より北へかかる場所にある小字宿は、昔鎌倉街道の駅家があったことに由来する地名という(風土記稿)。天文二〇年(一五五一)一二月七日の吉良頼康判物(大平文書)には「世田谷郷之内とゝろき村、同小山之郷」とみえ、世田谷城主吉良頼康は家臣の大平清九郎に所領として宛行い、同時に山野開発の諸役を免除して新田開発を奨励している。また同日付の吉良頼康判物(同文書)では「小山・とゝろ木」で円城寺氏が召使っている百姓が大平清九郎に与えられており、いまだ小山と等々力が村落として明確に分離していない様子を示している。
等々力村
とどろきむら
[現在地名]勝沼町等々力
勝沼村の西に位置し、西は上栗原村(現山梨市)。南部を日川が西流し、中央部を甲州道中が東西に通る。「和名抄」に記載される巨麻郡等力郷の遺称地とする説がある。中世は等々力郷とよばれた。慶長古高帳では高四七〇石余、領主の記載はないが、幕府領であったと推定される。寛永一〇年(一六三三)旗本大森領となり(「寛政重修諸家譜」、「貞享二年采地簿」臆乗鈔、元禄郷帳)、宝永二年(一七〇五)に甲府藩領、享保九年(一七二四)幕府領石和代官支配となり、幕末に至る(甲州三代官領知村付及高帳・御料私料高別調など)。なお元禄郷帳・旧高旧領取調帳にはほかに諏訪明神領二石余がみえる。
等々力村
とどろきむら
[現在地名]穂高町大字穂高 等々力
烏川扇状地の末端、穂高川が梓川に注ぐ地点にある。巾上・巾下・芦原から弥生式土器をはじめ、土師器・須恵器が出土している。「大塔物語」応永七年(一四〇〇)の、大文字一揆の仁科勢の中に「戸度呂木氏」がみえる。また、永禄一〇年(一五六七)の生島足島神社(現上田市)の神前起請文の「仁科親類被官」の中に「等々力豊前守定厚」の名がみえる。
穂高川とざぼり川の合流する三角地形を利用した地点に等々力城跡がある。
等々力村
とどろきむら
[現在地名]中原区等々力、東京都世田谷区等々力一―八丁目・玉堤一―二丁目・玉川田園調布一丁目・東玉川一―二丁目・深沢七―八丁目など
荏原郡に属し、南に多摩川が流れ、北は深沢村、東は奥沢村(現東京都世田谷区)、西は橘樹郡宮内村に接する。天文二〇年(一五五一)一二月七日の吉良頼康判物(武州古文書)に「世田谷郷之内とゝろき村」とみえる。寛永二年(一六二五)旗本鈴木領、同九年一部が江戸芝増上寺領となり二給。享保二年(一七一七)の地境争論裁許状(安藤文書)に「寛永年中等々力村水帳ニ新小向と記候田畑数多有之」とみえ、寛永以前に多摩川右岸に飛地が形成されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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