玉井庄(読み)たまのいのしよう

日本歴史地名大系 「玉井庄」の解説

玉井庄
たまのいのしよう

古代から中世における奈良東大寺領荘園。荘名の初見は長徳四年(九九八)の諸国諸庄田地注文定(東大寺要録)で、「綴喜郡玉井庄本地卅六町但六町法花寺被取云々」とみえ、天平宝字四年(七六〇)七月二三日に東大寺に勅施入された封戸五千戸(東大寺要録)の一部が荘園化したと思われる。

天永三年(一一一二)一二月の、隣接する石垣いしがき庄との相論に際して出された東大寺公文所注進状(東大寺文書)は四至を「限東山 限南川原 限西泉河 限北公田」とし、「右件四至、就去天平宝字四年七月廿三日勅書并度宣旨及国判等」と記す。東山とはおお(井出山)、南の川原はたま川をさすと考えられ、西のいずみ河は木津きづ川である。北の公田の所在は不明だが、およそ近世の井手村と水無みずなし村一帯が荘域であったと思われる。荘地は先引の注文定には「本地卅六町」とあるが、大治三年(一一二八)七月日付の東大寺荘園目録(同文書)は「田八丁・畠八丁余」と記している。三六町とは荒地原野など未墾地を含んだものと解され、事実、建保二年(一二一四)五月日付東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録)には「玉井庄十七町七段二百七十歩」とあり、また計一町七段の下司・公文・職仕ら荘官に対する給田畠があった。

玉井庄は玉川下流の扇状地に位置し、東には円提えんてい(井手寺)があり、南は石垣庄に接するため、両者との間で度度相論が生じた。天喜四年(一〇五六)、この頃内大臣藤原頼宗の領するところであった円提寺との間で、円提寺領の立券をめぐって相論が起こっている(同年八月一五日付「玉井荘解案」東大寺文書)。同じ年、玉川の分水をめぐる用水相論もあり、八月二五日付玉井荘田堵等解(百巻本東大寺文書)に、

<資料は省略されています>

とある。

玉井庄
たまのいのしよう

賀茂別雷かもわけいかずち神社領。承久二年(一二二〇)一一月二九日付西園寺家家領相博状案(大徳寺文書)に葉栗郡松枝まつえだ庄の四至として「西限玉井庄」とみえ、東側で松枝庄と境を接していた。現在木曾川町の玉ノ井はその遺称とみることができる。南下する木曾川の左岸に位置している。

成立年代は不詳。寿永三年(一一八四)四月二四日付源頼朝下文案(賀茂別雷神社文書)に、賀茂別雷神社領四二ヵ所のうちとして「尾張国 玉井庄」とみえ、院宣の旨に任せ、武士狼藉の停止と神事用途の備進が命ぜられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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