玉野村(読み)たまのむら

日本歴史地名大系 「玉野村」の解説

玉野村
たまのむら

[現在地名]相馬市玉野

阿武隈高地の霊山りようぜん(八二三・五メートル)および古霊山ふるりようぜん(七八二・五メートル)の東麓の山中および高原に位置し、東は入山上いりやまかみ村・笹町ささまち村。南西の伊達郡石田いしだ(現霊山町)からの中村街道が字岩下いわしたで村内に入り、北の仙台藩領伊具いぐ筆甫ひつぽ(現宮城県丸森町)を経て、入山上村まつぼうに至る。字霊山に発した御手洗みたらい川は宇多うだ川となり、筆甫村を経て入山上村に入る。建武四年(一三三七)正月二七日の氏家道誠軍勢催促状(相馬文書)によると、相馬胤頼は北畠顕家の籠る霊山城を「武野路手」から攻めることを要請されているが、これは玉野路手のことであろう。

かつては山上村のうちで、慶長三年(一五九八)に同村と上杉景勝領の伊達郡石田村から人を移して駅を立て、それぞれ相馬玉野村・伊達玉野村と称された(宇多郡村誌)


玉野村
たまのむら

[現在地名]加西市玉野町

豊倉とよくら村の北に位置し、万願寺まんがんじ川の中流域右岸に立地する。「播磨国風土記賀毛かも楢原ならはら里の条にみえる玉野村の遺称地。のちの仁賢・顕宗両天皇がともに皇子で、美嚢みなぎ志深しじみ(現三木市)高野たかの宮にいた時、国造許麻の娘根日女命に求婚し、根日女はそれに応じた。しかし二皇子は譲り合ってめとらず、根日女は年老いて死んだ。皇子らは大いに悲しみ、玉をもって墓を飾れと命じたので村名がついたという。「祇園社家記録」応安四年(一三七一)一〇月八日条に「次西ノ河井、大河渡テ又野アリ、其名玉野云々」とある。


玉野村
たまのむら

[現在地名]尾西市玉野

日光につこう(古川)が村の東を流れ、西は阿古井あこい村に接する。天文九年(一五四〇)一〇月の正福寺門徒本尊控帳(正福寺文書)に、

<資料は省略されています>

とある。概高五六〇石九斗余、寛文九年(一六六九)古川ふるかわ新田の縄入で一〇三石余、さらに文政一一年(一八二八)と一二年の両年にわたって新田を開き三三石余を加えた(天保村絵図)。寛文の家数一〇三、男二八一人・女三二一人(寛文覚書)で、天保一二年(一八四一)には一八五、男三九五・女三九六とある。

寺は、浄土真宗善福ぜんふく寺と光願こうがん寺、禅宗の宝勝ほうしよう寺の三ヵ寺がある(天保村絵図)


玉野村
たまのむら

[現在地名]春日井市玉野町

高蔵寺こうそうじ村の東、南は庄内川を隔てて上水野かみみずの(現瀬戸市)に対する。建武四年(一三三七)卯月五日の日付のある文書(守部文書)に「熱田大神宮領山田郡内野田村并柏井荘内十五坪及玉野村等、各半分代官職事、右幡屋大夫政継、任社家往古例各半分可令知行之状如件」とある。永享元年(一四二九)二月の五社神社棟札(同社蔵)に「尾州春日井郡篠木之庄玉野村」とあり、中世は篠木しのき庄に属していた。織田信雄分限帳に「弐百五拾貫文 玉のゝ郷 土方弥一郎」とある。

寛文一一年(一六七一)の家数四八、人数二二〇で「池田川筋鮎之運上銀出ス」とある(寛文覚書)


玉野村
たまのむら

[現在地名]棚倉町玉野

板橋いたばし村の北、阿武隈高地西縁部丘陵とやしろ川南岸の平地に立地。古墳時代から奈良時代のみやまえ遺跡がある。貞和二年(一三四六)頃と考えられる新恩所領注文(白河証古文書)高野たかの郡北方のうち「玉野」とみえ、玉野を含む八ヵ村は中先代の乱の闕所地として伊達氏が拝領していたが、陸奥国衙は結城親朝に新恩として与えた。

江戸時代の領主の変遷は伊野上いのかみ村と同じ。


玉野村
たまのむら

[現在地名]袖ケ浦市玉野

吉野田よしのだ村の南西に位置し、鎗水やりみず川が流れる。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高一四九石。寛永四年(一六二七)知行宛行状で村内一六石が旗本窪田氏に与えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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