田中謙助(読み)たなか・けんすけ

朝日日本歴史人物事典 「田中謙助」の解説

田中謙助

没年:文久2.4.24(1862.5.22)
生年:文政11(1828)
幕末薩摩(鹿児島)藩士,尊攘派志士。同藩士池田家に生まれ,田中氏を継ぐ。藩校造士館訓導を経て江戸藩邸の中小姓,安政6(1859)年11月薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加した。翌万延1(1860)年1月,水戸藩浪士と提携して井伊直弼暗殺を計画,帰藩して出兵を求めたが藩庁は容れなかった。文久2(1862)年4月,島津久光の率兵上洛に随従大坂に入る。同23日有馬新七らと共に大坂を脱走し,伏見寺田屋に尊王挙兵を画策,島津久光の中止命令を伝えに来た使者闘争となり負傷(寺田屋事件)。翌日藩命に従い自刃した。

(井上勲)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中謙助」の解説

田中謙助 たなか-けんすけ

1828-1862 幕末の武士
文政11年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。江戸で水戸藩などの尊攘(そんじょう)派とまじわる。有馬新七らと関白九条尚忠らの襲撃をはかり,京都伏見の寺田屋に集結するが,島津久光(ひさみつ)の中止命令をつたえる使者とあらそい負傷(寺田屋事件),文久2年4月24日切腹。35歳。本姓は池田。名は盛明通称は別に直之進。

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世界大百科事典(旧版)内の田中謙助の言及

【寺田屋事件】より

…薩摩藩主の父にあたる島津久光は幕府と長州藩による公武合体策の失敗後,雄藩連合による公武合体たて直しをめざして上京した。薩摩藩士有馬新七,田中謙助,大山巌,西郷従道,三島通庸らと浪士の清川八郎,田中河内介,真木和泉らは,これを機会とみて京都に集まり,佐幕派の関白九条尚忠,所司代酒井忠義殺害の計画を立てた。この動きを察知した久光は激派志士たちが寺田屋で会合中をねらい,同藩士奈良原繁,大山綱良ら9人を鎮圧のために派遣。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」