トルストイ

精選版 日本国語大辞典 「トルストイ」の意味・読み・例文・類語

トルストイ

[一] (Aljeksjej Konstantinovič Tolstoj アレクセイ=コンスタンチノビチ━) 帝政ロシア詩人劇作家小説家。アレクサンドル二世の侍従武官を勤め、純粋芸術主義的・ロマン主義的傾向をもつ譚史、英雄抒情詩、歴史小説を書いた。代表作は「白銀公爵」「皇帝フョードル=ヨアノビチ」。(一八一七‐七五
[二] (Aljeksjej Nikolajevič Tolstoj アレクセイ=ニコラエビチ━) ソ連作家貴族の血をひき、はじめシンボリズムの詩人・作家として登場。革命後パリに亡命したが、一九二三年ソ連に復帰し、革命のなかに生きぬいた知識人の思想的遍歴主題とした長編三部作「苦悩の中を行く」を完成した。(一八八三‐一九四五
[三] (Ljev Nikolajevič Tolstoj レフ=ニコラエビチ━) 帝政ロシア小説家。ドストエフスキーとともに一九世紀ロシア文学を代表する。ヤースナヤ‐ポリャーナの名門伯爵家に生まれ、農奴たちに同情し、有閑社会の生活を否定既成政治・社会・宗教・教育などに反抗して、当時のロシアの国家・社会の矛盾をリアルに描出し、ロシア文学写実主義的伝統を受け継ぐとともに、求道的な内面の世界を描き、次々と大作を生み出して後代の作家に大きな影響を与えた。代表作は「幼年時代」「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」「復活」「クロイツェル‐ソナタ」など。杜翁。(一八二八‐一九一〇

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デジタル大辞泉 「トルストイ」の意味・読み・例文・類語

トルストイ

Lev Nikolaevich Tolstoy》[1828~1910]ロシアの小説家・思想家。人間の良心とキリスト教的愛を背景に、人道主義的文学を樹立。晩年、放浪の旅に出て、病死。小説「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」「復活」、戯曲「生ける屍」など。大トルストイ。杜翁とおう
中沢臨川によるの評伝。大正2年(1913)刊行。

トルストイ(Aleksey Konstantinovich Tolstoy)

[1817~1875]ロシアの詩人・小説家・劇作家。ロシア象徴派の祖と目され、叙情詩のほかに、多彩なジャンルで活躍した。歴史小説「白銀公爵」、史劇「皇帝フョードル=イワノビチ」「皇帝ボリス」など。

トルストイ(Aleksey Nikolaevich Tolstoy)

[1883~1945]ロシア・ソ連の小説家。革命後一時亡命。帰国後民族愛に満ちた作品を書いた。作「苦悩の中を行く」「ピョートル一世」など。

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百科事典マイペディア 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ

ロシアの作家。ドストエフスキーとともに19世紀ロシア文学を代表,トルストイ主義の名で知られる独自の思想家としても大きな影響を残した。伯爵家の四男としてツーラ近くのヤスナヤ・ポリャーナの広大な荘園に生まれ,カザン大学を中退後,軍務について,カフカスで処女作《幼年時代》(1852年)を書きあげ,文壇に認められた。以後《少年時代》(1854年),《青年時代》(1856年),《コサック》(1862年)などを発表,1862年に宮廷医の娘で18歳のソフィヤと結婚し,文筆活動に専念した。《戦争と平和》《アンナ・カレーニナ》などの大作はこの時期に生まれた。やがて宗教的思想に自身の内面の矛盾からの救いを求めるようになり,《懺悔》(1882年),《わが信仰》(1884年)その他の宗教論文,《イワンの馬鹿》などの民話で,悪に対する無抵抗の思想を説いた。1898年に発表した《芸術とは何か》では,自作品を含め,世界の大文学を全面的に否定するに至る。しかし,宗教的転機以後にも,《クロイツェル・ソナタ》(1890年),《イワン・イリイチの死》(1886年),戯曲《闇の力》(1886年)などの作品があり,1899年には三つめの長編《復活》を完成した。晩年はソフィア夫人との家庭的葛藤(かっとう)に苦しみ,1910年10月に家出して,アスターポボという小さな駅で没した。日本の近代文学には,特に白樺派を通じて多大な影響を与えた。
→関連項目江渡狄嶺ガルボルククラムスコイクロイツェル・ソナタ芸術至上主義菜食主義写実主義人文主義セバストポリ徳冨蘆花馬場孤蝶レオンチエフレーピン

トルストイ

ロシア,ソ連の作家。貴族の出身。象徴主義詩人として出発,《びっこの公爵》(1912年)などの小説で文名をあげた。革命後亡命,ベルリンで自伝的な《ニキータの幼年時代》(1922年),SF的な《アエリータ》(1923年)を書き,1923年に帰国後は歴史小説《ピョートル1世》(1929年―1945年)と,革命期の知識人の運命を描いた三部作長編《苦悩の中を行く》(1920年―1941年)でソビエト作家の地位を確立した。ほかに推理小説ふうの《ガーリン技師の双曲線》(1926年)など。

トルストイ

ロシアの詩人,劇作家。貴族の出身で,いとこのジェムチュジニコフと〈コジマ・プルトコフ〉の偽名で戯文を発表。小説に《白銀公爵》(1863年),戯曲に《皇帝フョードル・ヨアノビチ》(1868年)など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ
Tolstoi, Lev Nikolaevich

[生]1828.9.9. トゥーラ,ヤースナヤポリャーナ
[没]1910.11.20. アスターポボ
ロシアの小説家。伯爵家に生れ,幼くして両親を失った。 1847年カザン大学中退。故郷に帰り,農民の生活改革を試みたが失敗。 51年カフカスで軍務についていた兄のもとに行き,美しい自然のなかで文学に開眼し,自伝3部作の『幼年時代』 Detstvo (1852) ,『少年時代』 Otrochestvo (54) ,『青年時代』 Yunost' (57) で新進作家としての地位を確立した。 57年最初のヨーロッパ旅行に出,ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。 62年結婚,文筆活動に専念し,二大名作『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を完成した。宗教論文『懺悔』や,『イワンのばか』をはじめとする民話を書き,のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い,私有財産の否定,非戦論,非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死』『クロイツェル・ソナタ』『復活』,戯曲『闇の力』などの文学作品を書いたが,最後まで安らぎは得られず,1910年家出,リャザン=ウラル鉄道の小駅,アスターポボ (現在のレフ・トルストイ駅) の駅長官舎で没した。

トルストイ
Tolstoi, Aleksei Nikolaevich

[生]1883.1.10. ニコラエフスク
[没]1945.2.23. モスクワ
ソ連の小説家。伯爵家に生れ,初め象徴主義的な詩を書いていたが,次第に 19世紀の写実主義の伝統に立戻り,『びっこの旦那』 Khromoi barin (1912) などの長編により小説家としての地位を確立。 1917年の二月革命を歓喜して迎えるが,十月革命に対しては批判的で,19年春,家族とともにパリに亡命,長編3部作『苦悩のなかを行く』の執筆を開始。しかし西欧資本主義の退廃に接し,祖国の土への郷愁にとりつかれて,23年に帰国。新生ソ連の生活を題材とした短編を書きはじめるが,ここでもネップ時代の卑俗な現実への幻滅を描いたため反革命作家と批判され,一時作品の発表を中断。その後歴史的テーマに関心を寄せ,未完の大著『ピョートル1世』 Pëtr I (29~45) ,戯曲『イワン雷帝』 Ivan groznyi (42~43) を書いた。

トルストイ
Tolstoi, Dmitrii Andreevich

[生]1823.3.13. モスクワ
[没]1889.5.7. ペテルブルグ
ロシアの政治家。伯爵。 1865~80年宗務院長としてロシア正教会を監督するとともに,非国教徒たる分離派に対してきびしい政策をとった。 66年より文相に就任し,大学の自治を制限したり,古典ギムナジウムを創設して,教育における反動政策を推進。 82~89年内相兼憲兵長官として,皇帝アレクサンドル2世暗殺後の反動政策に中心的役割を果し,貴族階級の特権擁護のために,ゼムストボ制度の手直しや革命運動の弾圧などを実施した。著書『ロシアにおけるローマ・カトリシズム』 Le catholicisme romain en Russie (2巻,1863~64) がある。

トルストイ
Tolstoi, Aleksei Konstantinovich

[生]1817.9.5. ペテルブルグ
[没]1875.10.10. クラスヌイログ
ロシアの小説家,劇作家,詩人。伯爵家の生れで,L.トルストイの遠い親戚にあたる。思想的には保守的ながらも,『ロシア国史』 Istoriya gosudarstva Rossiiskogo (1868) ,『ポポフの夢』 Son Popova (73) など腐敗した官僚制を風刺した詩や,歴史悲劇の3部作『イワン雷帝の死』 Smert' Ioanna Groznogo (66) ,『皇帝フョードル・ヨアーノビチ』 Tsar' Fëdor Ioannovich (68) ,『皇帝ボリース』 Tsar' Boris (70) などを残した。

トルストイ
Tolstoi(Tolstaya), Sonya(Sofia) Andreevna

[生]1844
[没]1919
ロシアの文豪 L. V.トルストイの妻。モスクワの医者ベルスの娘として生れ,1862年結婚。最初の 15年間は夫の手助けをし,13人もの子供をもうけて仲むつまじかったが,夫が文学から離れて宗教や社会活動に専念するようになると不和になり,たびたび別居した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「トルストイ」の解説

トルストイ
Lev Nikolaevich Tolstoi

1828~1910

ロシアの作家。古い貴族の家柄に生まれた。軍隊に入って,カフカース戦争セヴァストーポリ籠城戦に参加し,その経験を作品とした。1856年軍籍を退いたあと,自分の領地において地主として暮らし,農業経営の改善や農民の教育に努めた。80年代から社会的発言を開始した。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの小説のほか,『イヴァンのばか』などの民話,さらに『懺悔』『さらばわれら何をなすべきか』などの宗教的作品をも執筆し,非暴力とキリスト教的隣人愛を骨子とする独自の社会哲学,平和主義を説いた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「トルストイ」の解説

トルストイ
Lev Nikolaevich Tolstoi

1828〜1910
19世紀ロシア文学を代表する小説家
富裕な貴族の生まれ。カザン大学を中退して故郷に帰り,農民の生活改善に努力。1853年クリミア戦争に従軍し,その体験を『セヴァストーポリ物語』に書いて認められ,退官後は農奴解放や文学活動にはげんだ。専制国家の圧迫と社会悪に抗議し,社会悪の根源としての私有財産の否定に到達したが,その克服は暴力によってではなく,人間の道徳的再生によると考え,キリスト教的人間愛と悪への無抵抗を説いた。晩年は自己の現実生活と信念の矛盾に苦しみ家出したが,一寒村で病死。主著『戦争と平和』『アンナ=カレーニナ』『告白』『復活』など。

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世界大百科事典 第2版 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ【Lev Nikolaevich Tolstoi】

1828‐1910
ロシアの小説家。伯爵家の四男として,母方ボルコンスキー公爵家の領地だったヤースナヤ・ポリャーナに生まれた。トルストイ家は14世紀にロシアに来たドイツ人インドリスを祖とし,その子孫にはロシア史に残る人物も多い。母方も名門の家柄で,ロシア建国の祖リューリクとつながりがある。幼くして父母を失い,叔母たちの後見のもとで育てられたが,外国人家庭教師による教育,貴族の社交に必要な趣味・教養を十分に与えられ,富裕な地主貴族として安穏な生活を送れる境遇にあった。

トルストイ【Dmitrii Andreevich Tolstoi】

1823‐89
ロシアの政治家,伯爵。反動的政治で知られる。1850年代まではロシア皇帝ニコライ1世の子コンスタンティン大公を取り巻く自由主義的官僚グループに加わっていたが,60年代初めから〈強力な権力〉をめざすようになる。65‐80年には宗務院長。66年より文相を兼任した。71年学制改革を行い,貴族層のための古典ギムナジウムを復活する。82‐89年内相兼憲兵長官として一連の反動的政策を遂行した。とくに82年の検閲制度の強化,89年の地方主事制施行による中央権力の地方行政に対する支配力強化は有名である。

トルストイ【Aleksei Konstantinovich Tolstoi】

1817‐75
ロシアの小説家,詩人,劇作家。アレクサンドル2世の皇太子時代の学友で,ロシア宮廷でも高い位置にあったが,早くから文筆に手を染め,1840年代には幻想小説《吸血鬼》を書き,今日青少年の愛読書となっている歴史小説《白銀公爵》(1861)を書き始めた。50年代にはコジマ・プルトコフの名で,従兄弟のジェムチュジニコフ兄弟と共同して,今日でも評価の高い一連の風刺詩,パロディ,ノンセンス詩を共作した。多才な作家であったが,自然や愛を主題とする抒情詩人として最もよく知られている。

トルストイ【Aleksei Nikolaevich Tolstoi】

1883‐1945
ソ連邦の作家。詩集《空色の河のかなたに》(1908)で出発。十月革命前に《牧童》《女優》(ともに1910)など50余の短編のほか,長編《奇人たち》(1911),ドストエフスキーの影響の強い長編《びっこの公爵》(1912)などを発表して文名を確立した。革命後パリに亡命,短編《ピョートル大帝の1日》(1918),自伝的な中編《ニキータの幼年時代》(1922),SF仕立ての奇抜な小説《アエリータ》(1923)などを書く。

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世界大百科事典内のトルストイの言及

【アンナ・カレーニナ】より

…ロシアの小説家レフ・トルストイの長編小説。1875‐77年刊。…

【児童文学】より


[旧ソ連邦]
 かつてロシアでは,A.S.プーシキンが民話に取材して《金のニワトリ》(1834)などを書き,エルショフP.P.Ershovが《せむしの小馬》(1834)を作り,I.A.クルイロフはイソップ風の寓話を,V.M.ガルシンは童話的な寓話を書いたが,いずれも権力に刃向かう声であった。F.K.ソログープは暗い影の多い不思議な小説を作り,L.N.トルストイはおおらかな民話と小品を発表した。革命後の新しい児童文学の父はM.ゴーリキーであったが,彼はとくに子どものものを書かずに,V.V.マヤコーフスキーやS.Ya.マルシャークやK.I.チュコフスキーにその実りをゆずった。…

【ドゥホボル派】より

…そしてロシア中央部からカフカスに強制的に移住させられ,1898年には約7500人がカナダに移住した。なお,かねてドゥホボル派の思想に共鳴していた文豪トルストイが,カナダ移住の費用を援助するため,ひとたび折った筆を再びとり,長編《復活》を書いたことはよく知られている。一部はキプロスに移った。…

【何をなすべきか】より

…この小説はロシアの幾世代もの青年たちを育てることになった。 1882年,トルストイは国勢調査の調査員としてモスクワの貧民街を訪れ,そこでの観察から始まる自分の思想の一大転換を《さらばわれら何をなすべきかTak chto zhe nam delat’》に書いた。これは86年に脱稿される。…

【非戦論】より

…そして,04年8月第二インターナショナル第6回大会に出席した片山潜とロシア代表プレハーノフは反戦を誓いあって握手を交わした。 また,トルストイが《ロンドン・タイムズ》(1904年6月27日)に寄稿した非戦論,《爾曹悔改めよ》は《平民新聞》(1904年8月7日)に〈トルストイ翁の日露戦争論〉として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。《平民新聞》は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は〈人々真個の宗教を喪失せるが為〉ではなく,〈列国経済的競争の激甚なるに在り〉とした。…

【復活】より

…ロシアの作家L.N.トルストイの長編小説。友人の法律家A.F.コーニから聞いた実話に基づき,1889年《コーニの話Konevskaya povest’》という表題で書き始められた。…

【平和】より

…彼はメキシコとの戦争や奴隷制に反対し,納税を拒否したため投獄されたこともある。ロシアではL.N.トルストイがクリミア戦争以来反戦平和を唱え,日本を含む世界中に影響を与えた。インド独立運動の指導者であったM.K.ガンディーもソローとトルストイの反戦思想を賞賛した。…

【ヤースナヤ・ポリャーナ】より

…ロシア連邦,モスクワの南方約190kmにある,L.N.トルストイの生地。ロシア語で〈明るい森の中の草地〉の意であるが,ヤースナヤは,トネリコの木を意味するヤーセンナヤyasennayaのなまりで,広葉樹を主体とする土地柄をよく現している。…

【唯美主義】より

…ルネサンスの建築家アルベルティは《建築論》の中で,美は部分と部分の調和ある有機的な相互関係である,と規定した。19世紀ロシアの作家L.N.トルストイは,唯美主義を否定しR.ワーグナーやR.シュトラウスを批判した《芸術とは何か》(1898)において,〈ルネサンス時代のカトリック教会の腐敗で信仰が失われた〉とルネサンスを否定したが,これは反唯美主義が本質的には西欧近代の否定に通じることを示している。これをうけて,フランスの悪魔主義の作家ペラダンは《トルストイに応える》を書き,〈美が生み出すのは感情を観念に転化する独自の歓び,つまり抽象的な動きである〉と反論した。…

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