朝日日本歴史人物事典 「田丸稲之衛門」の解説
田丸稲之衛門
生年:文化2(1805)
幕末の天狗党(筑波勢)の首領となった尊攘派水戸藩士。諱は直允,稲之衛門と称す。父は山国共綿。田丸直諒の養子。天保10(1839)年,天保検地の際の縄奉行,弘化1(1844)年家督相続し,嘉永2(1849)年書院番組頭,安政5(1858)~7年の戊午の密勅返納問題では返納に反対し,同7年に左遷,文久3(1863)年に町奉行。元治1(1864)年,激派の藤田小四郎らと会談,筑波山挙兵の大将になることを承諾,3月に挙兵,藩主目代松平頼徳の軍と共に諸生党軍と交戦,頼徳軍投降後,幕府軍,諸生党軍に敗北。10月,武田耕雲斎をいただいて上京し一橋慶喜に訴えようとしたが,途中で金沢藩に降伏,幕命により越前国(福井県)敦賀で斬罪。
(吉田昌彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報