日本大百科全書(ニッポニカ) 「田原桂一」の意味・わかりやすい解説
田原桂一
たはらけいいち
(1951―2017)
写真家。京都市生まれ。写真家であった祖父から手ほどきを受け、中学時代からカメラ技術を習得。高校卒業後は短編映画の自主製作に専心した。1972年(昭和47)、打楽器奏者ツトム・ヤマシタ(1947― )によって結成された劇団レッド・ブッダ・シアターに参加。演劇と音楽を融合したこの芸術集団の照明および映像を担当した。同年劇団のヨーロッパ公演に同行し渡仏。翌年劇団から離れた後もパリにとどまり写真家として活動を始めた。
写真家としての出発点となった最初のシリーズ「都市」(1973~1976)は、パリの街をモノクロームでとらえた作品で、石造りの道路や建築によって形づくられた都市景観を写しだしたものである。日本ではけっして見ることのできないこうした景観が田原の関心をひきつけたというだけではなく、人けのない街並を構成する色彩、明暗、質感、形態といったものすべてが白と黒の世界に凝縮された画面は、黒々としているにもかかわらず、かえって街を照らしだす光そのものを感じさせ、パリ独特の光と影に対する田原の関心をも浮かびあがらせている。光と影に対するアプローチは「都市」より少し遅れて撮影されはじめた「窓」(1974~1983)においてより一層明確になる。屋根裏部屋の窓越しに風景をとらえたこの作品からもまた、たしかに通常の街路からはうかがい知ることのできないパリの裏の姿をかいまみることができる。とはいうものの、空、雲、建物の上部といった単調なイメージの繰り返しは、目新しいイメージに対するというよりはむしろ刻々と変化していく光そのものに対する関心をうかがわせる。屋外の光、室内をただよう光、そして窓ガラスやそこに付着した汚れあるいは水滴に反射する光がすべて渾然一体となって、白から黒へと至る階調として画面を構成しているのである。
1977年には「窓」によってアルル国際写真フェスティバル大賞を受賞。国際的評価を確立するとともに、この年パリ市立近代美術館で開催された「フランス現代写真の新傾向」展の出品作家として選ばれるなど、日本よりむしろフランスの写真家として注目を集めた。
1978年からはピエール・クロソウスキーやヨーゼフ・ボイスをはじめとする芸術家の肖像写真を数多く撮影し、「ホモ・ロクウェンス」(1983)や「顔貌」(1988)を発表した。
1979年「エクラ」の制作を開始(~1983)。この作品を特徴づけている、光によって画面を抽象的に構成する手法や、大きく引き伸ばされた印画紙を2枚のガラスで挟んで床にじかに置くという展示方法は、その後の田原の作品が、通常の写真の枠組みを越えた造形的、空間的作品へと展開されていく直接のきっかけともなっており、イメージをガラス板に直接プリントした「トランスパラン」シリーズ(1987)や、光によって屋外空間を構成した「光のオベリスク」(1987、東京)、「光の庭」(1989、恵庭(えにわ)市)、「光のエコー」(2000、パリ)などのインスタレーション作品が制作された。
また、アール・ヌーボー様式の建築をはじめとする建築写真を発表するなど、多彩な活動を展開している。1978年のフランス写真批評家賞、1984年度の木村伊兵衛写真賞など国内外の数多くの賞を受賞した。
[河野通孝]
『『ホモ・ロクウェンス――芸術のなかの証人たち』(1983・流行通信)』▽『『Métaphore』(1986・求龍堂)』▽『『顔貌』(1988・Parco出版)』▽『『H』(1993・小学館)』▽『『天使の回廊』(1993・新潮社)』▽『三宅理一文、田原桂一写真『世紀末建築』全6巻(1983~1984・講談社)』▽『田原桂一・平木収ほか著『田原桂一写真集――Tahara Keiichi 1973―83』(1985・ゴローインターナショナルプレス)』▽『田原桂一写真、『SD』編集部編『世紀末建築』(1985・鹿島出版会)』▽『田原桂一著、ダニエル・ファシュほか文『Opéra de Paris』(1995~1996・文献社)』▽『「KEIICHI TAHARA」(カタログ。1996・何必館・京都現代美術館)』