田山村(読み)たやまむら

日本歴史地名大系 「田山村」の解説

田山村
たやまむら

[現在地名]安代町 田山

矢神やがみ川や大沢おおさわ川が西流する米代よねしろ川に合流する谷底平地に位置し、東はなし峠を越えて曲田まがた村、西は陸奥鹿角かづの湯瀬ゆぜ(現秋田県鹿角市)。「雑書」寛永二一年(一六四四)五月三日条に「田山之内織泊部御番一条助兵衛、隠馬弐疋捕候」とある。正保国絵図に村名がみえ、高一五七石余。「雑書」承応三年(一六五四)三月一二日条に「浄法寺之内田山村挽師孫右衛門、縄挽勘解由」とあり、木地師や木挽職人が多かった。元禄十郡郷帳による〆高は田方三三七石余・畑方二四六石余。鹿角街道の往還筋にあたるため駅場が置かれ、元禄一六年(一七〇三)の伝馬条目(「御領分高札集」盛岡市中央公民館蔵)によれば、荒屋あらや村までの一駄の駄賃は八五文、湯瀬村へは一〇九文であった。文政一三年(一八三〇)書写の御国中賃銭割付(和田文書)によれば、荒屋村から二里二九町で、本馬一〇六文・軽尻六八文・人足五一文、湯瀬村まで三里一四町で、本馬一三一文・軽尻八五文・人足六四文。

邦内郷村志」では鹿角郡花輪はなわ通のうちに記され、「此邑往古二戸郡福岡県、今属鹿角郡花輪県、郡県未詳之」と注記したうえで、蔵分二四二石余・給分二二四石余、家数二七七、馬一五六。

田山村
たやまむら

[現在地名]南山城村大字田山

北流する名張なばり川の東、西流する伊賀川(長田川)の南を占める広域の村。村内を東西名張街道が通り、西の高尾村とは広瀬ひろせ渡で結ばれる。北大河原村に至る道を笹瀬ささせ道といい、伊賀川を笹瀬渡で越えた。

近世の地誌「山城名勝志」は当村の位置を記して「在北大河原村南、南大河原村東」とする。一条兼良の「ふち河の記」に次のようにみえる。

<資料は省略されています>

享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳によれば高五五〇石で柳生藩領。村内には郷士身分を名乗る者があり、元文四年(一七三九)一一月の田山村南北大河原村郷士由緒書写(「高山ダム水没地区調査報告書」所収)によると、彼ら郷士は近世以前からこの地に居住して付近を領有していたが、徳川家康の天下統一後、しだいに零落して郷中に埋もれるようになった。柳生氏が封地に入部した時、召し出されて各知行高一〇石を給せられ、諸役御免有事の際は陣屋に出仕すべき旨の命を受けて、身分格式が定まったという。その後柳生宗冬の代に、陣屋広間の番を仰せ付けられ全員残らず三日三晩の当直に当たり、毎年欠かさずその任務を果してきたが、元禄六年(一六九三)柳生家の勝手許不如意を理由に、従前の一〇石知行を一人扶持一石八斗に改める代りに陣屋番の義務を免除されることになり、さらに享保四年にはその一人扶持をも召し上げて、当時通用の四宝銀二枚ずつ下賜ということに切り替えられたうえ、その後通用銀の改正ごとに切り下げられていったので我慢ならず、郷士一同が連名をもって旧格のとおり一〇石下賜のことを願い出ている。

田山村
たやまむら

[現在地名]京ヶ瀬村田山

北東はじよう村、西は上黒瀬かみぐろせ村。近世は新発田藩岡方組の十四ヶ村組に属し、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数八・人数七九とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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