日本歴史地名大系 「田山村」の解説
田山村
たやまむら
「邦内郷村志」では鹿角郡
田山村
たやまむら
北流する
近世の地誌「山城名勝志」は当村の位置を記して「在北大河原村南、南大河原村東」とする。一条兼良の「ふち河の記」に次のようにみえる。
享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳によれば高五五〇石で柳生藩領。村内には郷士身分を名乗る者があり、元文四年(一七三九)一一月の田山村南北大河原村郷士由緒書写(「高山ダム水没地区調査報告書」所収)によると、彼ら郷士は近世以前からこの地に居住して付近を領有していたが、徳川家康の天下統一後、しだいに零落して郷中に埋もれるようになった。柳生氏が封地に入部した時、召し出されて各知行高一〇石を給せられ、諸役御免、有事の際は陣屋に出仕すべき旨の命を受けて、身分格式が定まったという。その後柳生宗冬の代に、陣屋広間の番を仰せ付けられ全員残らず三日三晩の当直に当たり、毎年欠かさずその任務を果してきたが、元禄六年(一六九三)柳生家の勝手許不如意を理由に、従前の一〇石知行を一人扶持一石八斗に改める代りに陣屋番の義務を免除されることになり、さらに享保四年にはその一人扶持をも召し上げて、当時通用の四宝銀二枚ずつ下賜ということに切り替えられたうえ、その後通用銀の改正ごとに切り下げられていったので我慢ならず、郷士一同が連名をもって旧格のとおり一〇石下賜のことを願い出ている。
田山村
たやまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報