日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳生宗冬」の意味・わかりやすい解説
柳生宗冬
やぎゅうむねふゆ
(1613―1675)
江戸柳生家3代。4代将軍徳川家綱(いえつな)の兵法師範、柳生藩主。宗矩(むねのり)の三男で、幼名又十郎(またじゅうろう)、通称主膳(しゅぜん)、名は俊矩(としのり)。のち内膳正(ないぜんのかみ)、飛騨守(ひだのかみ)に任官し、宗冬と改め、心計(しんけい)と号した。少年時代の宗冬は病弱で、ひたすら文事を愛好したという。14歳のとき将軍家光(いえみつ)の小姓として出仕し、18歳のとき、土井邸で催された喜多十太夫(じゅうだゆう)の猿楽能(さるがくのう)を見て、その入神の技に魅了され、心機一転して家法の新陰流に精励し、後日、文武二道に通じた大宗師(だいそうし)と仰がれるに至った。晩年、邸内の池畔に逍遥(しょうよう)し、柳の木陰で孑孑(ぼうふら)の浮沈する動作に兵法開悟のヒントを得、柳陰(りゅういん)と号したという。1646年(正保3)父宗矩の遺領4000石を拝領し、さらに、4年後には急死した兄三巌に嗣子(しし)がなかったため、その遺領8300石を継承して、3代の家督を継いだ。56年(明暦2)将軍家綱の兵法師範となり、ついで館林宰相綱吉(たてばやしさいしょうつなよし)(後の5代将軍)の入門誓紙を受け、大名間にも多くの門人を獲得した。68年(寛文8)総高1万石となり、宿願の大名の列に復した。宗冬の長男を宗春(むねはる)、次男を宗在(むねあり)といい、父子3人での演武を将軍家綱の上覧に供したこともあったが、75年(延宝3)2月宗春が疱瘡(ほうそう)を患って27歳の若さで急逝し、同年9月には宗冬が膈症(かくしょう)(癌(がん))を病(や)んで死去し、家督を継いだ宗在も、1689年(元禄2)36歳で世を去り、江戸柳生の黄金時代は慌ただしくその幕を閉じることとなった。
[渡辺一郎]