朝日日本歴史人物事典 「田村怡与造」の解説
田村怡与造
生年:安政1.10.11(1854.11.30)
明治時代の陸軍軍人。山梨県東八代郡の中尾神社神官田村義事の長男。兄弟3人(弟沖之甫,守衛)共に,陸士の軍刀組に数えられた秀才,しかし3人共病を得て中将で終わる。娘は陸軍大将山梨半造,同中将本間雅晴に嫁ぐ。怡与造は小学校教員を経て陸軍士官学校入校。西南戦争の際は同校生徒で出征,15年から21年までドイツに長期留学した。帰国後監軍部参謀,参謀本部第1局員を経て,日清戦争(1894~95)では大本営兵站総監部参謀,次に山県有朋の率いる第1軍の副参謀として出征。参謀長小川又次と作戦計画で意見が合わず無断で帰国,参謀次長川上操六のとりなしで大本営陸軍部幕僚付,歩兵第9連隊長。戦後ドイツ公使館付,帰国後再び参謀本部に入った。33年参謀総長川上が急逝し,35年次長となって参謀本部を切り回し,「今信玄」と呼ばれた。日露戦争(1904~05)を前にして,ひとりで対露作戦を策定したが,開戦直前に急死,死後中将に進む。<参考文献>金子空軒『近代武人百話』
(田中宏巳)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報