ドビュッシー(読み)どびゅっしー(英語表記)Claude Debussy

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドビュッシー」の意味・わかりやすい解説

ドビュッシー
どびゅっしー
Claude Debussy
(1862―1918)

フランスの作曲家。サン・ジェルマン・アン・レーの、貧しく、芸術的環境からはほど遠い家庭に8月22日に生まれる。その彼を音楽に触れさせたのは伯母だが、まもなくベルレーヌの義母モテ・ド・フルールビル夫人にピアノを学び、彼女の尽力で10歳でパリ音楽院に入学、1884年カンタータ『放蕩(ほうとう)息子』によってローマ大賞を得るまで在学。その間、チャイコフスキーパトロンとして名高いフォン・メック夫人のピアニストとしてヨーロッパ各地を回ったりした。

 ローマ大賞受賞者の義務としての2年間のローマでの寄宿生活は、内向的で非社交的な彼にとって満足のいくものではなかった。規定の数曲を書くや、ただちにパリに帰り、象徴派詩人の集まる芸術サロンに加わった。なかでも、マラルメの「火曜会」にただ1人の音楽家として出席していたことは彼の音楽に強い足跡を残している。また、この時期、彼の作曲活動のうえで二つの大きなできごとがおこっている。一つは、1888、89年のバイロイト訪問により、それまで傾倒していたワーグナーと自己の求める様式との相違を自覚したこと、もう一つは89年のパリ万国博覧会でジャワのガムラン音楽に触れたことである。ワーグナーに対する陶酔が、重苦しさ、押し付けがましさに変わると同時に、19世紀ロマン主義の美学に追随するのではなく、それを批判し、新たな感覚の音楽をつくる意欲が生まれてきたのである。そしてガムランの非西洋的リズムや音階が、ワーグナーの呪縛(じゅばく)から逃れるための重要な手法となった。その結実が、マラルメの長詩に霊感を得た管弦楽曲『牧神の午後への前奏曲』(1892~94)である。ここで彼は、瞬間瞬間の響きをたいせつにする独自のスタイルへ向かう手掛りを得た。この傾向は歌曲集『忘れられた小唄(こうた)』(ベルレーヌ作詩、1888)、『艶(えん)なる宴(うたげ)』第一集(同上、1903)、『ビリティスの三つの唄』(ピエール・ルイス作詞、1897~98)にも現れている。

 1899年、ロザリー(リリー)・テクシエと結婚したが、1903年ごろから銀行家のエンマ・バルダック夫人と恋仲になり、ロザリーが自殺未遂をおこすなど大きな社会的スキャンダルとなる。そして、再婚したドビュッシーとエンマの間には、05年に娘エンマ(愛称シュシュ)が生まれ、彼はやっと平和な家庭生活を営むようになる。のちに彼は愛娘のためにピアノ曲集『子どもの領分』を作曲(1906~08)している。

 この中期の代表作に、ベルギーの象徴派詩人メーテルリンクの台本によるオペラ『ペレアスとメリザンド』(1902・パリ初演)がある。原作のドラマのパリ公演を見た1893年以来、構想10年、ワーグナーの重圧を克服し、フランス語本来のリズムや抑揚をたいせつにしたドビュッシー唯一のオペラである(なおオペラにはポー原作の未完の『アッシャー家の崩壊』があり、補作、管弦楽化され、1977年に試演された)。『ペレアスとメリザンド』で彼は象徴派独特の幾重にも夢と現実が交錯しあう鏡のような宇宙を描き、19世紀的和声法の枠を越えた、より自由な音色の移り変わりを実現した。それは、まさに「音の色」とよぶにふさわしい、聴く者の共感覚に訴えかける色彩的な響きの追究であった。これが、彼を「印象主義的音楽家」「印象派の音楽家」とよぶゆえんである。

 この時期の傑作として、管弦楽曲『海』(1903~05)、ピアノ曲『版画』(1903)、『影像』(第一集1904~05、第二集1907)、歌曲『艶なる宴』第二集(ベルレーヌ作詩、1904)があげられる。

 1909年以降、彼はしだいに病に伏しがちとなる。また、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)も大きな精神的ショックを与えた。それでも大戦前にはピアノ曲集『前奏曲』(第一集1909~10、第二集1910~12)、ダンヌンツィオの神秘劇『聖セバスチャンの殉教』(1911)、バレエ曲『遊戯』(1912~13)、歌曲『ステファヌ・マラルメの三つの詩』(1913)などが完成され、円熟ぶりがうかがえる。そして大戦中、18世紀の古典主義的形式に20世紀の響きを接合する六つのソナタが計画された。完成したのはそのうちの三つで、『チェロとピアノのためのソナタ』『フルート、ビオラとハープのためのソナタ』(ともに1915)、『バイオリンとピアノのためのソナタ』(1916~17)である。これらが彼の最後の作品となった。1918年3月25日、パリにて死去。死因は直腸癌(がん)であった。

[船山 隆]

『平島正郎著『大音楽家・人と作品12 ドビュッシー』(1966・音楽之友社)』『S・ヤロチニスキ著、平島正郎訳『ドビュッシイ――印象主義と象徴主義』(1986・音楽之友社)』『A・ゴレア著、店村新次訳『ドビュッシー』(1971・音楽之友社)』『ドビュッシー著、杉本秀太郎訳『音楽のために』(1977・白水社)』『E・R・シュミッツ著、大場哉子訳『ドビュッシーのピアノ作品』(1984・全音楽譜出版社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドビュッシー」の意味・わかりやすい解説

ドビュッシー
Debussy, (Achille) Claude

[生]1862.8.22. サンジェルマンアンレ
[没]1918.3.25. パリ
フランスの作曲家。印象主義音楽を書いて現代音楽の扉を開いた。パリ国立音楽院に学び,1884年ローマ大賞を得てローマに留学。帰国後,初めワーグナーに傾倒していたが S.マラルメら象徴派詩人たちのつどいに加わるとともにワーグナーへの反発が次第に増し,新しい方向へ進もうとした。 89年パリの万国博覧会でガムランなど東洋のリズムや旋法に接し,独自の技法を築いた。管弦楽曲『牧神の午後への前奏曲』や『影像』『前奏曲』などで印象主義の音楽を確立。教会調,5音音階,全音音階,平行和音,半音階を自由に駆使して,「響-音色それ自体」のなかに瞬間的イメージをとらえようとした。作品はほかに,オペラ『ペレアスとメリザンド』,付随音楽『聖セバスチアンの殉教』,管弦楽曲『ノクチュルヌ』『海』,ピアノ曲『版画』『子供の領分』など。

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