由比宿(読み)ゆいしゆく

日本歴史地名大系 「由比宿」の解説

由比宿
ゆいしゆく

[現在地名]由比町由比

由比川が駿河湾に注ぐ河口に位置し、大部分左岸、一部が右岸にある。東は神沢かんざわ川を境に神沢村(現蒲原町)に対し、西は北田きただ村、東海道が東西に通る。五十三次の江戸から数えて一六宿目にあたり、東は蒲原かんばら宿(現蒲原町)から一里、西は興津おきつ宿(現清水市)へ二里一二町(宿村大概帳)中世由比郷の遺称地。油井(慶長四年「横田村詮諸役免除手形」由比家文書)・油比(同九年「井出正次年貢請取状」同文書)などと記した。

〔中世〕

「海道記」貞応二年(一二二三)四月一三日条に「湯居の宿をすきて遥かに行けは、千本の松原といふ処あり」とみえる。正平七年(一三五二)正月日の伊達景宗軍忠状(駿河伊達文書)によると、観応の擾乱の際、観応二年(一三五一)一一月頃足利直義方の上杉能憲などが駿河に押寄せ、当宿と蒲原宿の間に陣を取ったこと、また同六年と推定される一二月一五日付足利尊氏御内書(小笠原文書)によれば、一二月一一日当地で合戦が行われたことが知られる。応仁二年(一四六八)頃と推定される八月一八日付今川義忠書状(駿河伊達文書)によると、当地の国人領主由比氏らによる反今川の一揆が起こり、義忠は伊達蔵人丞や太田又三郎らに当地への出陣を求めている。天正八年(一五八〇)一二月三日、江尻えじり(現清水市)より岩本いわもと(現富士市)に至る宿の一つとして当宿に伝馬一疋が命じられている(「穴山信君伝馬手形写」判物証文写)

〔近世〕

天保郷帳に古くは由比町とあり、初めは由比町ともよばれた(元禄郷帳など)。天保一四年(一八四三)頃の宿往還の長さは八町五六間、宿内の町並は五町半(宿村大概帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報