日本歴史地名大系 「由比宿」の解説
由比宿
ゆいしゆく
〔中世〕
「海道記」貞応二年(一二二三)四月一三日条に「湯居の宿をすきて遥かに行けは、千本の松原といふ処あり」とみえる。正平七年(一三五二)正月日の伊達景宗軍忠状(駿河伊達文書)によると、観応の擾乱の際、観応二年(一三五一)一一月頃足利直義方の上杉能憲などが駿河に押寄せ、当宿と蒲原宿の間に陣を取ったこと、また同六年と推定される一二月一五日付足利尊氏御内書(小笠原文書)によれば、一二月一一日当地で合戦が行われたことが知られる。応仁二年(一四六八)頃と推定される八月一八日付今川義忠書状(駿河伊達文書)によると、当地の国人領主由比氏らによる反今川の一揆が起こり、義忠は伊達蔵人丞や太田又三郎らに当地への出陣を求めている。天正八年(一五八〇)一二月三日、
〔近世〕
天保郷帳に古くは由比町とあり、初めは由比町ともよばれた(元禄郷帳など)。天保一四年(一八四三)頃の宿往還の長さは八町五六間、宿内の町並は五町半(宿村大概帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報