畠村(読み)はたけむら

日本歴史地名大系 「畠村」の解説

畠村
はたけむら

[現在地名]男鹿市北浦入道崎きたうらにゆうどうざき

男鹿半島の北西端入道崎の南東に位置する。北平沢きたひらさわ村から北西へ約二キロ、戸賀とが村から北へ約三キロ。日本海に突き出たこの一帯は年中強い風を受ける。丘陵が海岸で断崖となり、海浜には岩礁が多い。入道崎の沖に、満潮時に水没するみず島がある。

文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に「畑ケ村」一石二斗一升二合とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には平沢内畑村とあり高の記載がない。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には畠村として当高一三石五斗六升八合とある。延宝三年(一六七五)の御指紙写(「北浦郷中文書」相場誠一郎氏蔵)に「畑村の内、宇沢・かいな沢(中略)新開の事、相心得候。

畠村
ひえばたけむら

[現在地名]魚津市稗畠

かど川右岸の山地にあり、西は室田むろだ村。明応六年(一四九七)九月一〇日の極性寺年貢米日記(極性寺暦代略記)によると、「ヒエハタケ」の定相が極性ごくしよう(現富山市)に年貢米を納めている。正保郷帳では高一六九石余、田方五町三反余・畑方六町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二一九石・免は四ツ八歩、小物成は山役六八匁・蝋役六匁(三箇国高物成帳)。同一三年に七八石の検地引高があり、一方文化一四年(一八一七)など二度の手上高があって天保一一年(一八四〇)の打銀高一六七石(「高免帳」杉木家文書)

畠村
はたむら

[現在地名]明日香村大字はた

冬野ふゆの村西方の渓谷に立地する。畑とも書く。「飛鳥古跡考」には「下畑村本郷也 上畑村本郷より卯の方」とある。「和名抄」高市郡波多はた郷とする説がある(五郡神社記)。文禄検地村高一四二石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報