日本大百科全書(ニッポニカ) 「疋田豊五郎」の意味・わかりやすい解説
疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)
ひきたぶんごろう
(1537?―1605)
近世初頭の剣術家。上泉信綱(かみいずみのぶつな)(秀綱)の高弟で、疋田新陰(ひきたしんかげ)流の祖。通称豊五郎(文五郎、分五郎)、字(あざな)は景兼(かげとも)・景忠(かげただ)、晩年栖雲斎(せいうんさい)と号した。伝記は不明な部分が多いが、上泉と同じ上州(群馬県)の小土豪の出身で、信綱に同行して上洛(じょうらく)したが、まもなく師のもとを去って諸国を武者修行し、のち織田信忠(おだのぶただ)、細川幽斎、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)らに刀槍(とうそう)の術を指南した。関ヶ原の戦い(1600)ののち、豊後(ぶんご)中津に移った細川家に再出仕、ついで肥前唐津(からつ)の寺沢兵庫頭(ひょうごのかみ)に仕え、1605年(慶長10)大坂城中に没したと伝える。疋田新陰流は、その伝書にもみられるように、陰流の愛洲移香(あいすいこう)を元祖にたて、新陰の原形をよりよくとどめているのが特色で、槍(やり)、薙刀(なぎなた)にも優れていて一家をなし、疋田陰流を称した。門人のうち、山田浮月斎(ふげつさい)、中井新八(唐津)、猪多伊織佐(いだいおりのすけ)(鳥取)、上野左右馬助(うえのそうまのすけ)(熊本)、坂井半助らが傑出し、その末流は全国各地に広がった。
[渡邉一郎]