白土村
しらつちむら
[現在地名]大任町大行事
北流する彦山川の両岸に位置し、東岸の北は柿原村、東に葛城山がある。建武三年(一三三六)四月二九日の少弐頼尚施行状(保阪潤治所蔵手鑑/南北朝遺文(九州編)一)によると、「豊前国得永地頭職」を長門串崎若宮(現山口県下関市の豊功神社)に沙汰付けることが白土新三郎に命じられているが、新三郎は当地を名字の地とする武士と考えられる。
白土村
しらつちむら
[現在地名]大和郡山市白土町
横田村東北方に位置する。環濠集落。旧箕田庄に属し、当村に小字「大御田」が残る。平治元年(一一五九)八月の東大寺雑役免野宮柴垣支配符(東大寺文書)に白土の庄名が所見。「多聞院日記」永禄九年(一五六六)一〇月四日条には「白土殿へ両種・一荷為礼ニ出了」、同一一年九月九日条に「節供朝飯ニ申付了、ソレヨリ法隆寺へ下了、馬ハ白土殿より借給了、明日白土神事也」とあり、白土関係の記事が多くみられる。
天正一三年(一五八五)筒井定次が伊賀に国替のとき、大和に残り豊臣秀長に召出されて家臣となり、検地に案内者として活躍する白土市助らは、この地を本貫とする地侍か。慶長郷帳では村高は八七九・六八石、御番衆領。
白土村
しらつちむら
[現在地名]丹波町字下山
北流する高屋川東岸に位置する。西部は低平で川が流れ、東部は標高五〇〇メートルほどの山地で川に面した西側山麓に、南北に人家が連なる。東は山地を越えて胡麻畑村(現日吉町)、南は尾長野村、西は質美村(現瑞穂町)、北は中山村(現和知町)に続く。園部藩領。
村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳に六八石余、天保郷帳では一一四石余と二倍近くに増加。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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