(泉正人)
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江戸前期の大名。幕府老中、大老。正盛(まさもり)の三男、正信(まさのぶ)の弟。通称久太郎。曽祖母にあたる春日局(かすがのつぼね)の養子となる。徳川家綱(いえつな)の小姓として出仕、上州安中(あんなか)藩主(2万石、のち4万石)を経て下総(しもうさ)古河(こが)藩主(9万石、のち13万石)となる。4代将軍家綱治世の末期、1679年(延宝7)老中となり、5代将軍綱吉(つなよし)の擁立に功があった。81年(天和1)大老。「天和(てんな)の治」として知られる綱吉初政期の実力者。正俊は自ら信ずること厚く、他には厳しい剛腹な人物といわれ、その天和の治は「賞罰厳明」をもって知られる。代官の統制・任免を通じての農政の強化、大名ことに譜代(ふだい)大名に対する除・減封の推進による幕政の引締めを図る。綱吉治世期29年間の除・減封は61件、うち初期の正俊執政期5年間に17件(廃絶録(はいぜつろく))。大老就任にあたり、牧野成貞(まきのなりさだ)を登用して将軍の側用人(そばようにん)とし、これを自らの「耳目(じもく)」とした。綱吉治世の安定とともにその寵(ちょう)を失う。84年(貞享1)8月28日、江戸城中において、若年寄で従弟(いとこ)にあたる稲葉正休(いなばまさやす)のために刺殺された。
[木村 礎]
『木村礎著「堀田正俊」(北島正元編『江戸幕府――その実力者たち』所収・1964・人物往来社)』▽『篠丸頼彦著「堀田正俊」(児玉幸多・木村礎編『大名列伝 6』所収・1966・人物往来社)』
江戸中期の政治家。3代将軍徳川家光の腹心堀田正盛の三男。1635年(寛永12)家光の乳母春日局の養子となり,41年世子家綱の小姓を務め,43年春日局の遺領3000石を相続。51年(慶安4)父正盛の遺領から1万石を分与され,従五位下備中守に叙任。67年(寛文7)2万石上野安中(あんなか)城主となる。70年若年寄,79年(延宝7)老中に進み,4万石を領し,従四位下に昇る。翌80年5代将軍を継いだ徳川綱吉から厚い信任を受け,財政専管を命ぜられ,翌81年(天和1)下総古河(こが)城主に転じ,5万石を加封,筑前守に改め,さらに大老に昇り,翌年4万石加増,合計13万石を領する。綱吉の初政期〈天和の治〉には正俊の補佐の功はすこぶる大きいと認められるが,やがてその権勢が幕臣の反感をよび,また剛直な性格が綱吉に嫌悪されるようになったと伝えられる。84年8月28日父の従弟若年寄稲葉正休(まさやす)に城中で刺殺された。理由は正休の私怨か,正俊専権への公憤か不明。
執筆者:辻 達也
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1634~84.8.28
江戸前期の老中・大老。父は正盛。1635年(寛永12)徳川家光の乳母春日局の養子となり,41年徳川家綱の小姓,60年(万治3)奏者番,70年(寛文10)若年寄,79年(延宝7)老中となり従四位下に叙任。徳川綱吉の将軍擁立に尽し,綱吉の厚い信頼により財政専管を命じられる。81年(天和元)下総国古河藩主となって備中守から筑前守に改め,大老に昇った。翌年加増され13万石。譜代大名の改易・減封や世襲的代官の大量処分など,綱吉の初政である天和の治を補佐したが,その武断的な政治は幕臣の反感をよび,84年(貞享元)8月,江戸城中で父正盛の従弟,若年寄稲葉正休により刺殺。
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…職務は月番を務めるほか勘定所役人への申達,任免,彼らよりの上申を受け,主要なものの額の決定や点検にあたった。勝手掛老中は1680年(延宝8)堀田正俊に従来合議制をとっていた老中執務のうち財政と農政を分離専管させたのが最初。1712年(正徳2)中絶,17年(享保2)復活した。…
…江戸城本丸御殿で,大老・老中・若年寄が執務した部屋。初期は将軍御座間(ござのま)の近くにあったが,老中・若年寄の側近的性格が薄れた中期以降は,1684年(貞享1)大老堀田正俊の刺殺事件をきっかけに,将軍の日常生活空間である中奥(なかおく)から表に移された。大名家の江戸屋敷や藩庁でも,家老が執務する部屋を御用部屋といい,ここで処理された案件を右筆が記録したのが,いわゆる《御用部屋日記》である。…
…忠清の免職を手始めに綱吉が実行した施策の一つは,腹心をもって権力の中枢を形成することであった。彼は前代の老中で彼の将軍就任を支持した堀田正俊を大老に取り立てるとともに寵臣を側近に集め,側用人の職を創置して側近の地位を老中同格にまで高め,将軍の意志を忠実に末端まで貫徹させうる機構を形成しようとした。これと並行して,前代に未解決であった越後高田藩の御家騒動(越後騒動)を親裁し,親藩筆頭の越後松平家を取りつぶしたのに引き続き,幕臣に対し仮借なく賞罰厳明の方策を励行した。…
…江戸時代の譜代大名(図)。もと尾張の出身で,1602年(慶長7)正吉のとき,それまで仕えていた小早川氏が断絶して牢人となったが,05年徳川家康から番士に取り立てられた。正吉の長子正盛は3代将軍家光に小姓として仕え,のち若年寄・老中を歴任し,42年(寛永19)下総佐倉藩万石の領主となった。しかし51年(慶安4)正盛は家光に殉死し,跡を継いだ正信は60年(万治3)領地返上の上書を提出して無断で佐倉に帰城したため,所領を没収された。…
※「堀田正俊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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