白山麓十八ヶ村(読み)はくさんろくじゆうはつかそん

日本歴史地名大系 「白山麓十八ヶ村」の解説

白山麓十八ヶ村
はくさんろくじゆうはつかそん

白山西麓から北西麓にかけて存在した江戸期の幕府直轄領の総称。手取川上流沿いの牛首うしくび(中世は牛頭)風嵐かざらししま下田原しもたわら(現白峰村)深瀬ふかぜたに釜谷かまたに五味島ごみしま二口ふたくち女原おなはら瀬戸せと(現尾口村)、および尾添おぞう川沿いの荒谷あらたに・尾添(現同上)大日だいにち川上流沿いの新保しんぼ須納谷すのだに丸山まるやまつえ小原おはら(現小松市)の一八ヵ村で構成されていた。山間部の谷間という立地条件から、手取川沿いは東谷ひがしたに十一ヶ村、尾添川沿いは尾添谷、大日川沿いは西谷にしたに五ヶ村とよばれた。

〔白山禅定道と白山争論〕

白山は加賀・越前・美濃の三国にまたがる信仰の山として知られ、天長九年(八三二)三国に信仰の中心となる白山禅定道の拠点が開かれ(白山之記)、白山三馬場とよばれた。そのうちの加賀馬場禅定道は白山本宮を起点とし、尾添川沿いに中宮(現吉野谷村)から尾添に入っている。一方、越前馬場禅定道は越前平泉へいせん(現福井県勝山市)を起点とし、加賀国境の小原峠を越え、風嵐のいち(現白峰村)に至っていた。白山信仰が盛んになると、禅定道の整備や山頂社殿の管理・修復などに利権がからみ、天文一二年(一五四三)平泉寺の寺衆と結んだ牛頭・風嵐両村が権現造営を行ったことに端を発し(「天文日記」同年一二月二四日条)、両村と尾添村の白山杣取権をめぐる争論に発展(白峰村の→牛頭尾口村の→尾添村。世にいう白山争論で、これが近世へ継承され、白山麓十八ヶ村成立の要因となる。

なお、これらの地域は加賀一向一揆の拠点山内やまのうちに含まれていたが、天正八年(一五八〇)織田信長による一揆平定の際、柴田勝家によって検地が行われ、尾添・荒谷両村を除く前記一六ヵ村の地域は、加賀国から越前国大野郡の所属に変更された(「白山一巻留書」林西寺文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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