益富保(読み)ますとみほ

日本歴史地名大系 「益富保」の解説

益富保
ますとみほ

近世の増泉ますいずみ村一帯に比定される保。大治二―三年(一一二七―二八)頃のものと考えられる六月二六日付藤原親賢書状(半井家本「医心方」巻二九紙背文書)に「益□保」とあり、文書下端の一字が切断され判然としないが残画から益富保と読める。同書状によれば国除目によって乳母(尾張局、高階為遠の娘か)が当保を預かっている。

永享三年(一四三一)に起こった領家鷹司家と地頭中島隆信との相論について記す「御前落居記録」などによれば、当保は永徳三年(一三八三)から粟田口長嗣により代官請が行われていたが、応永一三年(一四〇六)守護請となって、守護代二宮信濃入道が知行していた。しかし、同二一年加賀守護斯波満種が将軍足利義持の怒りに触れて失脚、富樫氏が守護に復帰した際に隆信が将軍家から地頭職の御判を得た。このとき隆信は地頭進止の地と号して領家への年貢一〇〇貫文を収めると約束しながらも、翌年から五〇貫文を押領した。


益富保
ますとみほ

江戸時代の鱒留ますどめ村の地に比定される。明徳二年(一三九一)一二月二九日付足利義満寄進状(石清水文書)に「奉寄 石清水八幡宮 丹後国成久・末成保并益富半分山口事 右、所寄進之状如件」とみえて益富保半分が石清水いわしみず八幡宮(現八幡市)に寄進され、翌三年正月七日付で、益富保など前出三保を八幡宮雑掌に付す旨の、丹後守護一色満範宛細川頼元施行状(同文書)が出されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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