下知状(読み)ゲジジョウ

デジタル大辞泉 「下知状」の意味・読み・例文・類語

げじ‐じょう〔ゲヂジヤウ〕【下知状】

下に対して命令を伝える文書。特に、中世、将軍の命を奉じて家臣が発給した文書の一。裁判の判決や、所領譲与安堵あんどなどに用いられた。

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精選版 日本国語大辞典 「下知状」の意味・読み・例文・類語

げじ‐じょう ゲヂジャウ【下知状】

〘名〙 (後世「げちじょう」とも) 中世、武家文書の様式一つ。命令を下達する文書。「下知如件」という書止めをもつ。幕府訴訟判決、譲与、安堵などひろく用いられ、訴訟判決の下知状は「裁許状」とも呼ばれた。下知。
新編追加‐永仁五年(1297)六月一日「於作毛者、任先下知状、可糺返一レ之」
随筆・折たく柴の記(1716頃)中「八月の初に、また銀改造らせし下知状には、内々の仰ありとは、しるし出したりけり」

げち‐じょう ‥ジャウ【下知状】

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改訂新版 世界大百科事典 「下知状」の意味・わかりやすい解説

下知状 (げちじょう)

鎌倉時代に発生した武家文書の一つ。鎌倉,南北朝,室町の各時代にみられる。平安時代にはじまった下文(くだしぶみ)の様式と御教書(みぎようしよ)の様式との合成である。将軍の意をうけた執権・連署が奉じて出す文書であるが,頼朝時代のものは少なく,いわゆる執権時代に入って様式も整い,また実例も多くなった。頼朝時代に発給された下知状としてもっとも古いのは建久6年(1195)6月5日付の高野山領備後国大田庄についてのものである。これをみると書き出しは〈可早守仰旨致沙汰備後国大田庄訴申両条事〉とあって,下文のはじめの1行を除いた形で,書止めの〈依前右大将殿仰〉と年月日の下に家司が署名する形は御教書のそれと同じである。ただ本文の末尾に〈下知如件〉とあるところから下知状と呼ばれるようになった。北条執権時代の下知状ほど様式が整っておらず過渡期のものといえよう。執権時代になると実例も多く,はじめに〈久美孫三郎行親代行信申丹後国佐野郷吉岡保内買得田畠事〉のように事書(ことがき)が書かれ,ついで〈右〉でうけて本文がはじまる。書止めは〈下知如件〉〈依鎌倉殿仰下知如件〉〈依仰下知如件〉のように結び,年月日を記す。差出書はおおむね年月日のつぎの行に書かれる。鎌倉幕府より発給した関東下知状では執権・連署が署名し,六波羅あるいは鎮西より出されたものには探題が署名する。宛書(あてがき)はなく,受取者の名は事書または本文中に示されている。下知状に書かれる内容と用途ははじめのうちは明確にきまっていなかったが,時代が下るにつれてその範囲が固定化してきた。すなわち幕府の裁許文書として裁判のおりの判決(当時これを裁許といった)に多く用いられた。今日残る下知状の大半はこの裁許状であるが和与(わよ)の際にも用いられる。文書の様式上から下知状といい,内容からみて同一の文書を裁許状と呼び,あるいは裁許の下知状のように文書名を付することもある。

 南北朝時代から室町時代にかけて下知状は若干変貌をとげる。一般的に下知状の用途が狭められ,限られた事柄にのみ発せられるようになった。尊氏時代では弟の直義発給のものが多く,様式は鎌倉時代のそれに近いが,執権・連署に相当する職掌の者が差出書にみえず,直義自身の署判が据えられている。尊氏側の下知状としてはその執事高師直が仰(おおせ)を奉じて出しているものがある。3代将軍義満以降は管領の奉じた下知状があらわれるが,8代将軍義政の時代で終わり,その後はみられない。室町時代では御教書と御内書が幕府文書としては多く発せられ,下知状の残るものは少ない。なお室町時代の下知状様式の文書の一つに禁制きんぜい)と過所(かしよ)がある。ともに幕府の奉行あるいは頭人などより出す文書で,前者は神社仏寺などに下し,境内への軍勢の乱入狼藉の禁止,山林竹木を刈り取ることの禁止などを定めたもの,後者は関所や津を通過するときの許可証として用いられた。いずれも書止めを〈仍下知如件〉と結ぶ。
執筆者: 近世では,将軍の朱印または黒印の条書を受けて発給された老中連署の条書を下知状と呼んだ。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「下知状」の意味・わかりやすい解説

下知状【げちじょう】

鎌倉時代に発生した武家文書の一形式。下文(くだしぶみ)と御教書(みぎょうしょ)の様式の合成されたもの。鎌倉幕府の発給する下知状を関東下知状といい,〈鎌倉殿〉の意を受けた執権(しっけん)・連署(れんしょ)が奉じて出す。書止め文言(もんごん)は〈下知如件(げちくだんのごとし)〉とし,差出人の署名は年月日の次の行に書かれる。受取人の名は事書(ことがき)もしくは本文中に示される。幕府政務上の裁決文書であり,諸種の特権免許,制札(せいさつ)・禁制(きんぜい),訴訟の判決(裁許)など,永続的効力の期待されるものに用いられた。
→関連項目掟書過所裁許状施行状

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下知状」の意味・わかりやすい解説

下知状
げちじょう

書止めが「下知件の如し」で結ばれる古文書。武家創出の文書様式で,下文 (くだしぶみ) よりも軽い事柄に使われた。鎌倉幕府は,御家人の所領安堵に,惣領に対しては下文を用いたのに対し,庶子には下知状をもってした。このほか,特権の免許,禁制などの制札,裁判の判決 (→裁許状 ) など長い効力を期待するものに下知状を用いた。また幕命を,六波羅,鎮西両探題が下達する場合もこの様式を使ったが,これを六波羅施行状,鎮西施行状と呼んだ。室町幕府では,将軍が不在であったり,幼少の場合,管領が将軍の仰せを奉じて下知状を出すという形式で,幕命を伝えた。また通行免許証 (→過所 ) にも用いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下知状」の意味・わかりやすい解説

下知状
げちじょう

古文書の一形式。平安中期におこった下文(くだしぶみ)から派生した文書様式で、本文の結びを「下知如件(げちくだんのごとし)」と書くことから下知状とよばれた。鎌倉時代、幕府において盛んに用いられ、下文、御教書(みぎょうしょ)と並んで幕府の公式文書として重要視された。これより室町・江戸両幕府をはじめ守護大名も下知状を発行した。このほか寺院などの出した下知状もみられる。用途は、所領の安堵(あんど)、所役(しょやく)免除、訴訟の判決、法令、禁制、過所(かしょ)(関所通行の許可証)などがおもなものであった。特殊な用例として、室町幕府において将軍が不在であったり、幼少のため署判できないときなどに、将軍の署判を必要とする文書を出さねばならない場合、管領(かんれい)の下知状で代用したことがある。

[百瀬今朝雄]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「下知状」の解説

下知状
げちじょう

中世の武家文書のうち「下知如件(くだんのごとし)」という書留文言をもつ様式のもの。弁官下文(くだしぶみ)の形式を受け継ぎ,おもに裁許を指令する際に用いた。鎌倉幕府が出したものを関東下知状といい,将軍が象徴的な存在になって以後多用された。六波羅・鎮西両探題も下知状を用いた。室町幕府では,足利直義(ただよし)・同義詮(よしあきら)・同義満が用いたが,しだいに御判御教書(ごはんのみぎょうしょ)に移行。将軍幼少などの場合には執事・管領が出した。

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世界大百科事典(旧版)内の下知状の言及

【武家様文書】より

…鎌倉幕府成立以後,武家政権あるいは武家が新しく生み出したり,公家(くげ)様文書を改良して用いた様式の文書。鎌倉幕府ははじめ公家様文書の下文(くだしぶみ)と御教書(みぎようしよ)を利用し,ついでその2様式の折衷ともいうべき様式で,これまでにない下知状(げちじよう)を生み出した。いずれも奉書(ほうしよ)形式であるこの下文,御教書,下知状の3様式が鎌倉幕府の中心的な発給文書となった。…

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