日本大百科全書(ニッポニカ) 「益田貞兼」の意味・わかりやすい解説
益田貞兼
ますださだかね
(?―1526)
室町中期の国人(こくじん)領主。石見(いわみ)国美濃(みの)郡益田荘(しょう)(島根県益田市)を本領とした。1462年(寛正3)、父兼堯(かねたか)から益田荘地頭職(じとうしき)を譲与され、七尾(ななお)城(益田市)に居城。妻は石見国津和野(つわの)城主吉見頼弘(よしみよりひろ)の娘。応仁(おうにん)の乱(1467~77)が始まると西軍大内政弘(おおうちまさひろ)に属して上洛(じょうらく)し、足利義視(あしかがよしみ)から東軍方の石見国衆三隅(みすみ)氏の所領を充行(あておこな)われた。71年(文明3)帰国後は、東軍大内教幸(のりゆき)方の吉見氏を攻めて旧領の長野荘(益田市)を奪還し、大内政弘からも防長(ぼうちょう)の所領を充行われた。また、兼堯の名代を東軍に派遣し、幕府からも72年当知行地(ちぎょうち)を、74年長野荘の安堵(あんど)を得た。さらに貞兼を合力するよう幕府から命じられた石見国衆高橋・三隅・福屋(ふくや)氏からは、契状(けいじょう)を取り付けるなど、応仁の乱を通じて西石見一帯に勢力を拡大した。78年大内政弘とともに北九州に出陣。83年嫡子宗兼(むねかね)に所領を譲与した。大永(たいえい)6年死去。法名全田。
[舘鼻 誠]
『『萩藩閥閲録 第1巻』(1967・山口県文書館)』▽『『大日本史料八編之3―10、13、15』(復刻版・1969~72・東京大学出版会)』▽『矢富熊一郎著『益田市史』(1963・益田郷土史矢富会)』