日本歴史地名大系 「相応寺跡」の解説
相応寺跡
そうおうじあと
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔創建〕
創建の由来は、「三代実録」貞観八年(八六六)一〇月二〇日条に次のように記される。
壱演(一演)は翌年七月一二日六五歳で没した。俗名大中臣正棟、右大臣清麻呂の曾孫。弘仁(八一〇―八二四)末年内舎人となったが兄二人が夭逝したので出家、弘仁廃太子の真如から真言密教を授けられた。居処を一定せず、たまたま河陽橋畔に来て、右の勅にみるとおりに一老婆から施しを受け、さらに地中から朽損した仏像を掘出す因縁によって相応寺を建立することになった。伝記では天皇が木工寮に命じて堂舎をつくらせ、「相応寺」の勅額を賜ったこと、壱演が黒土を集めて方丈の壇を築いて尊影を安置したところ、壇上が白に変じる奇瑞が現れたことなど、右の勅をさらに敷衍して記している。寺地は東は橋道、北は大路、南は河崖と明示されるが、承平五年(九三五)二月、土佐守の任満ちて上洛してきた紀貫之は、「相応寺のほとりに、しばしふねをとゞめ」た。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報