日本歴史地名大系 「真幸院」の解説
真幸院
まさきいん
現えびの市と小林市・
鎌倉期に入って、建久図田帳には島津庄寄郡のうちに諸県郡の真幸院三二〇町がみえ、地頭は島津忠久。応永二八年(一四二一)二月二七日の建久図田帳追記にも諸県郡内の真幸院は三二〇町とあり、公式な田数は同じである。ただし島津家文書のものとは別系統の写である建久図田帳(長谷場文書)では、真幸院は四七八町七反一〇歩となっている。建久九年(一一九八)二月二二日、忠久は鎌倉幕府から島津庄内郡司・弁済使等の名田七ヵ所を知行するよう命じられており、このなかに真幸院郡司名田が含まれていた(「関東御教書案」島津家文書)。正嘉二年(一二五八)八月には清原国宣が真幸院沙汰人職に任命されている(「大府宣案」続左丞抄)。文保二年(一三一八)六月五日の日向在国司所職注文(土持文書)によれば、真幸院国用一二石と四年に一度の寺社勘料(検注を行わない代りに徴収した税)と引田五町六反からの収入などが在国司の得分であった。鎌倉幕府滅亡直後の元弘三年(一三三三)七月、真幸院東郷鎮守、三宮
建武三年(一三三六)一月一〇日、足利尊氏方に属する肥後国
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報