日本大百科全書(ニッポニカ) 「矢田堀鴻」の意味・わかりやすい解説
矢田堀鴻
やたぼりこう
(1829―1887)
幕府海軍総裁。初めの名は敏、字(あざな)は孟軫、維新後、鴻と改名、通称は景蔵または帰六。関東代官荒井清兵衛の弟で、旗本の矢田堀家を継いだ。昌平黌(しょうへいこう)に学び、1855年(安政2)長崎海軍伝習生となり、勝麟太郎(かつりんたろう)らとともにオランダ人から伝習を受けた。軍艦頭取(とうどり)、軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)を歴任、1868年(慶応4)には海軍総裁となった。また軍艦操練所教授方頭取として、榎本武揚(えのもとたけあき)、赤松則良(あかまつのりよし)、荒井郁之助(あらいいくのすけ)など多数の海軍人材を養成した。維新後は徳川家に従って静岡に移住し、沼津兵学校の幹部として尽力。のち海軍省、工部省に出仕した。
[菊池俊彦]