石仏村(読み)いしぼとけむら

日本歴史地名大系 「石仏村」の解説

石仏村
いしぼとけむら

[現在地名]上市町石仏

大永田おながた村の北、上市川扇状地中央部に位置し、東を上市川が流れる。西は上砂子坂かみすなござか(現富山市)、北は竹鼻たけはな村。中世には多数の坊があり、森尻もりじりと相対して繁栄したという。小字名に番上免割ばんじようめんわりがある。正保郷帳によると高二四五石余、田方一六町一反余・畑方二反、新田高二九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高三九一石、免三ツ五歩、小物成は山役二七匁、鮭役三匁(退転)・鱒役一匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。その後宝永六年(一七〇九)、享保七年(一七二二)・同八年・同一七年・同一九年、寛保二年(一七四二)・延享元年(一七四四)・宝暦二年(一七五二)・安永七年(一七七八)・天明五年(一七八五)の手上高が計四二石あり、都合高四一三石となる。

石仏村
いしぼとけむら

[現在地名]昭和区石仏町・塩付しおつけ

東は河名かわな村、西は御器所ごきそ村に接する。御器所村用水と川名かわな(現山崎川)の二水路に挟まれた地で、村中央を塩付街道(石仏村街道)が南へ下りる。村南部全体は、八事やごと丘陵から続く平山を開発した藤成ふじなり新田である。天保村絵図によれば、集落は塩付街道を挟んで開けている。

寛文一一年(一六七一)の家数四五、人数二八五(寛文覚書)。概高に結ばれた田二二町八反八畝・畑九町八反五畝は、成瀬隼人正一円給知で、ほかに畑二〇町五畝が成瀬隼人正により開発されて、「給人自分検」で高一一六石余に結ばれた。このうち八〇石が小幡おばた(現守山区)長栄ちようえい寺に寄進された。

石仏村
いしぼとけむら

[現在地名]岩倉市石仏町

北は加納馬場かのうばば(現一宮市)、東は神野かみの村、南は岩倉村、西は町屋まちや(現一宮市)に接する。天保村絵図によれば村域内を南北犬山いぬやま街道が通り、集落は街道の東西に長く並んで描かれている。織田信雄分限帳に「一、弐百三拾貫文 石仏 蠏江権蔵」とあるのが初見。

小牧代官所支配下村。村高三八八石余が藩士一一人の給知。そのほかに享保一一年(一七二六)縄入高請の新田一三石余が蔵入地。田は五町六反六畝余、畑は三五町五反余。寛文一一年(一六七一)の戸数六二・人数三五六。「徇行記」によれば「此村畠多キ所ニテ、麦租概シ高十石目ニマツキ二石ツヽ納メ、麦成多キ所ユヘ村民麦食不足シ、又ハ定金高価ノ事ナトアリテ匱乏ス」という村柄であった。

石仏村
いしぼとけむら

[現在地名]河内長野市石仏・北青葉台きたあおばだい

天見あまみ谷がやや広くなった所にあり、天見川と高野街道が並行している。北西新町しんまち村。当地にあった阿弥陀寺本尊が石仏であったため、村名が生じたという。南東清水しみず村境のしろ山は、元弘二年(一三三二)楠木正成が構えたといわれる石仏城跡。烏帽子形えぼしがた城とともに天見谷・加賀田かがた谷を抑える重要な城であったと伝える。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一七一石余、ほかに山年貢高一〇石余。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では二一二石余、天和元年(一六八一)の河州各郡御給人村高付帳では一八一石余、元文二年(一七三七)の河内国高帳は二二〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

自動車税・軽自動車税

自動車税は自動車(軽自動車税の対象となる軽自動車等および固定資産税の対象となる大型特殊自動車を除く)の所有者に対し都道府県が課する税であり、軽自動車税は軽自動車等(原動機付自転車、軽自動車、小型特殊自...

自動車税・軽自動車税の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android