日本歴史地名大系 「神保村」の解説 神保村じんぼむら 群馬県:多野郡吉井町神保村[現在地名]吉井町神保高(たか)村の南、東は多胡(たご)村、西は長根(ながね)村、南は塩(しお)村に接し、村央を大沢(おおさわ)川が北流する。塩村南東部に接して飛地がある。西部の台地一帯を上神保(うわじんぼ)、東部の低地を下神保(したじんぼ)と称する。辛科(からしな)神社が鎮座することから、「和名抄」多胡郡の辛科郷に比定される。村名は同社領の神保にちなみ、「吾妻鏡」にみえる神保与三・同太郎・同与一などは神領神保から台頭した武士と推定され、永禄一〇年(一五六七)八月、武田信玄が信濃国生島足島(いくしまたるしま)神社(現長野県上田市)に提出させた幕下起請文(生島足島神社文書)に長根衆の一人として神保昌光がみえる。寛永二年(一六二五)当村五〇九石余が倉橋内匠助に与えられた(記録御用所本古文書)。 神保村じんぼうむら 滋賀県:甲賀郡甲賀町神保村[現在地名]甲賀町神保(じんぼ)小佐治(こさじ)村の南西、佐治川の谷に位置。神原(かんばら)・向山(むかいやま)・門出・大藪・東出・上などの垣内に分れる。古くは佐治庄に属し、隠岐(おき)と合せて大佐治とも称したという(甲賀郡志)。弘長元年(一二六一)五月二六日の六波羅施行状(中沢文書)に「近江国大佐治庄」とみえ、庄内の神保俊信分が佐々木時清に与えられた。建武四年(一三三七)四月日の小佐治基氏軍忠状(小佐治文書)には神保掃部助の名がみえ、暦応四年(一三四一)四月日の山中道俊言上状案(山中文書)には「大佐治上郷地頭神保宗内左衛門入道阿清」とある。寛永石高帳では高八三二石余。 神保村しんぼむら 新潟県:見附市神保村[現在地名]見附市神保町牛(うし)ヶ嶺(みね)村の西、北は稚児清水(ちごしみず)川を挟んで河野(がわの)村、南は小貫(こつなぎ)村(現栃尾市)、西は東山丘陵の山地で田井(たい)村・椿沢(つばきざわ)村。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「しんほ」とみえる。正保国絵図に村名がみえ、長岡藩領。天和元年(一六八一)の栃尾組高人別納物帳(稲田理八氏蔵)では、高三一三石六斗余のうち九八石八斗余が河野作り、二二石一斗余が池之島(いけのしま)作り。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by