日本歴史地名大系 「神通寺跡」の解説
神通寺跡
じんつうじあと
「朝野群載」(仏事下)に土佐国守であった藤原有佐の死後、子重基が父が京都に持帰った神通寺の梵鐘を返送するに当たり、永久三年(一一一五)一二月九日付で記した文書が載り、「土州神通寺者、国境霊勝之地也、建立之後、星霜不知幾廻、区宇之間、風雨無限其損、僧侶少住、仏具多欠、先考廿年之前、早宰彼国、見此寺之頽綱、惜其物之離散、所残之鐘、空以在梁、暁夕来而不叩、猶恨秋霜之難和声、墻壁荒而無全、更疑白波之可掩耳、仍与寺僧相共議云、仏法者不謂親疎、結縁為先、尤物者不定遠近、随好而至、請送蒲牢於華城、鎮告六時於三宝、解纜之時、相随帰京」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報