コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

福原越後 ふくはらえちご

5件 の用語解説(福原越後の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

福原越後
ふくはらえちご

[生]文化12(1815).長州
[没]元治1(1864).11.12. 長州
幕末の長州藩家老。支藩徳山藩主毛利就寿の子。名は元定,元かん。号は翠崖。1万 3000石。尊攘派に属し,文久三年八月十八日の政変での長州藩の威信失墜の回復に尽力したが入れられず,禁門の変に戦って負傷。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

福原越後 ふくはら-えちご

1815-1864 幕末の武士。
文化12年8月28日生まれ。周防(すおう)(山口県)徳山藩主毛利広鎮(ひろしげ)の6男。宗藩萩(はぎ)藩の国家老をつとめ尊攘(そんじょう)運動を推進。みずから兵を指揮した禁門の変で敗れる。第1次幕長戦争に際し,幕府への恭順をきめた藩から,益田右衛門介(うえもんのすけ),国司信濃(くにし-しなの)とともに切腹を命じられた。元治(げんじ)元年11月12日死去。50歳。名は元僴(もとたけ)。号は翠崖。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

福原越後

没年:元治1.11.12(1864.12.10)
生年:文化12.8.28(1815.9.30)
幕末の長州(萩)藩の家老。幼名を徴之助,佐世家に入って主殿,のち勝定,元定,元〓と称する。号は翠崖。支藩の徳山藩に生まれ,本藩寄組の佐世家に入り,のち,藩命により,永代家老家の福原家(1万1314石余)に入り,越後と称す。重厚寡言と評される。万延1(1860)年以後,当職(国家老)に在職し,当職廃止後は,加判役の最高の地位にあり,長州藩の政治運動に当たる。文久3(1863)年の8月18日の政変による失地回復のため,翌年の禁門の変を指導し,藤の森で負傷した。帰国後,長州征討軍進撃の前に,三家老のひとりとして岩国で切腹させられた。<参考文献>渡辺翁記念文化協会編『福原家文書』

(井上勝生)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ふくはらえちご【福原越後】

1815‐64(文化12‐元治1)
幕末長州藩の家老。長州支藩の徳山藩主毛利広鎮の六男に生まれ,初め佐世家の養子となり,ついで長州藩永代家老福原家を継ぐ。兵庫警衛総奉行に任じ,1860年(万延1)より藩地の家老に就き,さらに加判役となる。改革派政府の首脳として尽力。64年(元治1)の禁門の変に兵を率いて入京し,藤ノ森で負傷して帰藩,やがて益田,国司両家老とともに,征長軍への謝罪のために切腹させられた。【井上 勝生】

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

福原越後
ふくはらえちご
(1815―1864)

江戸後期の長州藩の永代家老。支藩徳山藩主毛利広鎮(もうりひろしげ)(就寿(たかひさ))の六男で、名は元(もとたけ)。宇部(うべ)を采邑(さいゆう)とする宗(そう)藩家老福原親俊(ちかとし)の跡を継ぐ(一万一千三百余石)。嘉永(かえい)年間(1848~54)以降、藩の要路にあり、毛利敬親(たかちか)(慶親(よしちか))を助けて尊攘(そんじょう)に尽くし、また宇部領内の領政改革を行い、重厚温雅にして文学詩歌をよくした。文久(ぶんきゅう)3年(1863)八月十八日の政変が起こると、翌64年(元治1)藩主の雪冤(せつえん)を陳情するため率兵上京、蛤御門(はまぐりごもん)付近で幕府軍と戦って敗れ(禁門の変)、海路、宇部に帰った。第一次長州征伐にあたり、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)、国司信濃(くにししなの)の両家老とともに禁門の変の責任を問われ、岩国竜護寺で自刃した。[吉本一雄]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

福原越後の関連キーワード宍戸左馬之介益田右衛門介江戸家老大星由良之助河井継之助記念館生田良佐小川留之助小国融蔵酒井庄之助村河直方

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone