禁門の変(読み)キンモンノヘン

デジタル大辞泉 「禁門の変」の意味・読み・例文・類語

きんもん‐の‐へん【禁門の変】

蛤御門はまぐりごもんの変

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精選版 日本国語大辞典 「禁門の変」の意味・読み・例文・類語

きんもん【禁門】 の 変(へん)

  1. 元治元年(一八六四)に起きた戦い。その前年の文久三年八月一八日の政変で、京都での地位を失った長州藩は、勢力回復のために種々画策したが思うようにいかず、この年、藩の家老三人が兵を率いて上京し、七月一八日、会津藩薩摩藩の兵と京都御所蛤御門付近で会戦して敗れた。その後の第一次長州征伐の端緒となる。蛤御門の変。元治の変。

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百科事典マイペディア 「禁門の変」の意味・わかりやすい解説

禁門の変【きんもんのへん】

蛤御門(はまぐりごもん)の変とも。文久3年8月18日の政変で京都を追われ,朝廷の九門の一つ,禁門警備の任を解かれた長州勢が勢力奪回を図って敗れた事件。藩主父子の名誉回復や追放された七卿の帰洛を嘆願していた長州では周布政之助高杉晋作らの持重論と急進派の進発論が渦巻いていたが,池田屋事件の報で急進派が藩論を制した。1864年急進派の3家老が藩兵を率いて上京し,朝廷警備に当たっていた京都守護職松平容保の率いる薩摩・会津連合軍と戦った。しかし蛤御門(京都御所外郭西側の門)の激戦で長州勢は完敗し敗走。第1次長州征伐の発端となった。→七卿落
→関連項目海軍操練所久坂玄瑞西郷隆盛尊王攘夷運動平野国臣真木和泉明治維新

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改訂新版 世界大百科事典 「禁門の変」の意味・わかりやすい解説

禁門の変 (きんもんのへん)

1864年(元治1)7月19日,長州藩と朝廷を固める会津藩,薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘。蛤(はまぐり)御門の変ともいう。これより前,尊王攘夷を主張する長州藩は,〈文久3年(1863)8月18日の政変〉で,公武合体派の会津藩や薩摩藩らの諸藩兵により京都から追われ,朝廷の九門の一つ,禁門警備の任を免じられ,藩主が処罰された。長州藩には,京都を脱走した七卿や真木和泉らの浪士も集結し,失地回復をめぐって進発論や持重論が渦巻いた。藩の指導者,周布政之助や高杉晋作らは,持重論により藩論をまとめていたが,翌64年3月になると,幕府と薩摩藩,会津藩,越前藩らの公武合体派は内部対立を起こし,有力大藩が帰国し,間隙が生じた。さらに6月に池田屋事件で志士が斬殺され,長州藩内で,一気に進発論が勝利を占めた。国司信濃福原越後・益田弾正の3家老に,来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉らが同行して先発し,世子毛利定広の本隊が後続した。先発隊は,山崎,伏見,嵯峨に分駐し,七卿や藩主の免罪などを上表したが入れられず,かえって幕府の征長令の発令工作が進んでいた。ついに先発隊は,本隊の到着を待たずに挙兵し,7月19日,京都内外で長州藩兵と会津・桑名・薩摩など諸藩兵が交戦した。長州は,一時,御所に迫ったが敗走し,来島ら多数が戦死し,久坂・真木らが自殺した。京都は,約3万戸が焼失し,7月24日,長州追討の朝命が下る。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「禁門の変」の意味・わかりやすい解説

禁門の変
きんもんのへん

蛤 (はまぐり) 御門の変ともいう。幕末,長州藩兵と幕府との京都御所付近における戦闘。文久2 (1862) 年以来,攘夷主義を掲げて朝廷に支配的影響力を有した長州藩は,文久三年八月十八日の政変で,薩摩藩兵に京都を追われて失脚した。その後長州藩が再起を期している矢先,池田屋事件で多数の攘夷派志士が新撰組のため殺害,逮捕された。これに憤激した長州藩では,真木和泉らの急進論が支配的となり,京都守護職の追放を掲げて藩兵が決起し,元治1 (64) 年7月 18日夜,御所を目指して突入した。特に蛤御門口の戦闘は激しく,長州勢は最初は優位に立ったが,薩摩藩兵の来襲により敗退し,これによって長州勢は全面的に撤退した。この戦闘で,多数の長州藩攘夷派志士が戦死した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「禁門の変」の解説

禁門の変
きんもんのへん

元治甲子の変・蛤御門(はまぐりごもん)の変とも。1864年(元治元)7月京都でおきた,尊攘派萩藩の軍と公武合体派会津・鹿児島両藩を中心とする軍の衝突。前年の8月18日の政変によって尊攘派は京都から追放され,京都では公武合体派が勢力をもり返した。64年1月参予会議が成立したが,尊攘派も挽回を策動するうちに6月5日池田屋事件がおこった。これを契機に萩藩は強硬論に転じ,京へ進発した。6月24日萩藩軍は京を囲み,軍勢の対峙が続いた。7月19日早朝戦端が開かれたが,1日で萩藩軍が敗北。京都市中は大火災となり,獄中の志士の多くが殺害された。7月21日長州追討令が出され,第1次長州戦争となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「禁門の変」の解説

禁門の変
きんもんのへん

1864(元治元)年,京都でおこった長州藩の出兵による兵乱
蛤 (はまぐり) 御門の変・元治甲子の変ともいう。八月十八日の政変(1863)で京都を追われた長州藩は,勢力回復のため藩主父子の無実を訴え,尊攘派7卿の赦免を願ったが許されず,さらに池田屋事件がおこったことから出兵,入京して,薩摩・会津・桑名の藩兵と蛤御門付近で交戦したが敗北。長州征討の発端となった。

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防府市歴史用語集 「禁門の変」の解説

禁門の変

 1864年、長州藩[ちょうしゅうはん]が不利になった形勢を立て直すために京都に攻めこんだのですが、京都を警備していた会津藩主松平容保[まつだいらかたもり]の軍に負けた事件のことを言います。蛤御門の変[はまぐりごもんのへん]とも言います。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「禁門の変」の意味・わかりやすい解説

禁門の変
きんもんのへん

蛤御門の変

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