秋永村(読み)あきながむら

日本歴史地名大系 「秋永村」の解説

秋永村
あきながむら

[現在地名]鈴鹿市秋永町

稗田ひえだ村の西、郡山こおりやま台地東端にある。神戸かんべ宿から当村を経て一身田いつしんでん(現津市)へ出る道は参宮さんぐう古道ともいわれ、近世の伊勢参宮街道以前の道であったと伝えられる。古くから開けた村で、明治一一年(一八七八)近くの赤郷あかご(一号墳)からは三角縁神獣鏡(現秋永町真昌寺蔵)出土、前方後円墳(赤郷塚二号墳)もある。平安時代に始まる栗真くるま庄内の地であり、建武二年(一三三五)九月二日付太政官符(神宮文庫蔵御鎮座伝記紙背文書)にみえる神宮に寄進された所領のなかに「栗真(庄カ)秋永名拾余町茂時跡」とあり、この地が栗真庄内であったことがわかる。


秋永村
あきながむら

[現在地名]大任町大行事だいぎようじ

北流する彦山川西岸に位置し、対岸柿原かきばる村、白土しらつち(現在の東白土)、南は白土村(現在の西白土)。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高五五一石余、家数七四・人数一五五(うち百姓一三・名子一〇)、牛一一・馬一八。郷村高帳では高六一五石余、うち新田高六二石余。旧高旧領取調帳では高六四一石余。秋永弁米で知られる。当村が困窮のため小倉藩の藩庫に年貢米を完納できない場合、あか(現赤村)村民が米を各戸で切り合せて支弁した。この農村助け合いの例を秋永弁米と称したが、これが長く続いたため赤村の負担は大きく、幕末頃に赤村庄屋の帆足通蔵が無尽を作って当村の自立を助けた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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