稲子村(読み)いなごむら

日本歴史地名大系 「稲子村」の解説

稲子村
いなごむら

[現在地名]小海町大字稲子(芦平あしだいらを除く)

松原湖の西方を東南流する稲子川(大月川)から西方北八ヶ岳中山なかやま(稲子峠、二三二〇メートル)まで、東西約九キロ、南北約三キロの広大な面積をもつが、耕地は大月川沿いの標高一一四〇―一二〇〇メートルのわずかな平地に限られ、その他は北八ヶ岳の山林・原野である。佐久甲州往還からも西方に隔たった山間の村であるが、大月川(上流稲子川)渓谷をさかのぼって中山峠越え諏訪郡せりさわ(現茅野市)方面とのわずかの往来があった。東は稲子川をもって松原まつばら村と、東南は稲子新田(芦平)村、南は海尻うみじり(現南牧村)に、北は松原村八那池やないけ村などに接する。西は八ヶ岳山嶺をもって諏訪郡と境している。

天正一四年(一五八六)信州佐久郡之内貫之御帳に「拾貫 いなた」と記され、文禄四年(一五九五)頃作成された佐久郡川西村々貫目帳には「拾貫文 稲子村」となっている。元和八年(一六二二)徳川忠長領、佐久郡高書上帳(柳沢文書)では一七石五斗六升である。


稲子村
いなごむら

[現在地名]羽生市稲子

利根川右岸の自然堤防上に位置する村。「いなこ」は砂の入交じった土の意で、同川沿岸の地味をさすという(埼玉県地名誌)。西は同川堤に沿って上流本川俣ほんかわまた村と接する。利根川岸に河岸があった。検地は承応三年(一六五四)幕府領代官が実施したほか、新田分につき貞享四年(一六八七)、享保一八年(一七三三)と延享元年(一七四四)にも実施されたといわれる(風土記稿)。田園簿によると田高一三八石余・畑高五一八石余、幕府領、ほかに野銭永一貫六〇〇文。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領。同藩領は寛文元年(一六六一)からで宝永元年(一七〇四)上知(「寛政重修諸家譜」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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