篠田村(読み)ささだむら

日本歴史地名大系 「篠田村」の解説

篠田村
ささだむら

[現在地名]八幡西区笹田ささだほしおか一―七丁目

金剛こんごう山の西麓に位置する。北は金剛村、西は野面のぶ村。笹田村とも記した。鞍手くらて郡に属したが、近世前期は一時御牧みまき(のちの遠賀郡)の内であった。小早川時代の指出前之帳では御牧郡香月かつき村の枝村として村名がみえ、同村に含まれて高付されていた。福岡藩の成立後は同藩領となるが、元和九年―延宝五年(一六二三―七七)および元禄元年―享保五年(一六八八―一七二〇)は東蓮寺藩(直方藩)領であった。


篠田村
しのだむら

[現在地名]一宮町篠田

西原にしばら村の南、大木おおぎ村の南西にあたる。豊川(現豊川市)から新城しんしろ道が通り大木村・一之宮いちのみや村へ至る。慶長九年(一六〇四)八月の三州宝飯郡篠田村御検地帳(篠田区有)によると、反別合計一六町八反余で、分米合計一九〇石余である。地名に、なみまつ・たけのうしろ・西ノかいと・あらこなどがみえる。元禄四年(一六九一)の三州宝飯郡篠田村書出シ帳(同区有)による人口は四八八人、うち男二六三・女二二五である。

明治時代(一八六八―一九一二)には製陶業に従事する者が数軒あってカワラケ・炮六を作っていた(本茂村誌)。「三河国二葉松」の土産名物器財部に「篠田、土器造」とあり、また「続柳陰」に「牧野城主牧野古白の時より起る」として、創業の古いことを示す。


篠田村
しのだむら

[現在地名]美和町上篠田かみしのだ下篠田しもしのだ

東は沖之島おきのしま(現七宝町)、北は木田きだ村に接し、佐屋路津島つしま街道との中間に位置する大村。「寛文覚書」に戸数一二八、人数五七〇とある。「徇行記」によれば、概高二千三四七石余のうち一千二七四石余は藩士二五人の給知。田は一三四町三反六畝余、畑は二一町二反三畝余で、「此村落ハ宮田大江通ノ西ノ方農屋建ナラヒ、上ノ切・下ノ切ト二区ニ分ル(中略)村キリニテハ耕田タラサルニヨリ神守村ノ田畝ヲ専ラ出作スト也、持高平均ノ所ニテ小百姓ハカリ也、地割ハ十ケ年目毎ニスルト也」とある。


篠田村
しのだむら

[現在地名]竹田市吉田よしだ

大野川上流にあり、北は玉来たまらい村、北東恵良えら村。正保郷帳では矢倉やぐら郷に属し、田方一二九石余・畑方一二九石余。弘化物成帳では玉来組のうち、村位は上、免八ツ九分、田一一三石余(九町余)・畑二九石余(四町一反余)・屋敷三石余(三反余)で、開田はほとんどなく、開畑四斗余(八反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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