粟井村(読み)あわいむら

日本歴史地名大系 「粟井村」の解説

粟井村
あわいむら

[現在地名]観音寺市粟井町

木之郷きのごう村の南東に位置し、讃岐山脈とそれに続く洪積台地上にある。岩鍋いわなべ池から柞田くにた川に注ぐ粟井川の東側に広がる台地と村域の三分の二を占める山地とからなる。台地の北東は新田しんでん村に続く。岩鍋池の東二キロ、菩提ぼだい(三一二メートル)の小尾根の端部に銅剣が出土した藤の谷ふじのたに遺跡がある。また岩鍋池の西側に広がる舌状台地には、石器弥生土器の出土する岩鍋遺跡がある。「西讃府志」に「粟井ト名クルハ、阿波国ニ居玉フ天太玉命ヲ此国ノ忌部ノ祖トシ迎ヘ来リテ爰ニ祭レルニヨリ、名ヲ得タリト云」とあり、天太玉命を祀る式内社粟井神社がある。平安時代の明経道学者苅田首安雄は、弘仁一三年(八二二)当地竹成たけなり乳若ちちわか屋敷で生れたと伝える。安雄は八四〇年代に明経得業生、天安二年(八五八)大学直講となり、貞観九年(八六七)始祖武内宿禰にちなんで紀朝臣を名乗る。同一一年菅原是善(道真の父)、大江音人らとともに貞観格の選定に参加、従五位下を授けられ、仁和二年(八八六)六五歳で没(三代実録)


粟井村
あわいむら

[現在地名]岡山市粟井

足守あしもり川を境に大井おおい村の西に位置する。同川右岸の山麓および谷間に集落があり、大山往来が通る。天平一一年(七三九)の備中国大税負死亡人帳(正倉院文書)にみえる大井郷粟井里の遺称地。慶長六年(一六〇一)木下家定に「あハひ村」八四八石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図には粟井谷村とあり、同高、足守藩領。幕末まで同藩領。正保郷帳は粟井村とし、枝村として久田きゆうだ村・懸畑かけはた村を記す。貞享二年(一六八五)の高八〇〇石余、家数一二一・人数五四三(「賀陽郡・上房郡寺社改帳」総社市史編さん室蔵)


粟井村
あわいむら

[現在地名]中島町粟井

忽那くつな(現中島)の東北部に位置し、西は畑里はたり村、南は大浦おおうら村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早郡の項に「粟井村 日損所、芝山有」とみえ、村高一五二石六斗、うち田九一石、畑六一石六斗とある。

明治一一年(一八七八)の「伊予国風早郡地誌」に「往古ハ粟井郷松吉荘ニ属セシ所、後チ何ツノ頃トナク郷荘名自ラ廃シ、初メ桑名村ト称シ畑里村一村タリキ、天慶三年庚子三月今ノ村名ニ改ム、後チ永享六年甲寅二月畑里村ト分テ両村タリ」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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