粟野神社(読み)あわのじんじや

日本歴史地名大系 「粟野神社」の解説

粟野神社
あわのじんじや

[現在地名]高岡高浜

高浜たかはま地区の北東大淀川北岸にある。祭神は大己貴命・少彦名尊・事代主尊・味高彦根尊・下光照姫尊・高光照姫尊・御井神・建御名方尊。旧県社。江戸時代末までは粟野八社大明神と称し、祭神には前記に破利斉女が加わる。神体として鏡八面がある。勧請の年代はつまびらかではないが、応永年間(一三九四―一四二八)島津久豊が穆佐むかさ在城のおり崇敬し、穆佐院三〇〇町の惣廟になり、神領七町を寄進されたという。別当寺は禅宗の神留山文殊院粟野寺(高岡名勝志)。戦国期の伊東氏の神社領支配の内容を示す弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)には「たかはま粟野大明神」とみえ、高浜のうち五反・屋敷三ヵ所、蔵岡くらおか(現宮崎市)のうち「あをのた」一町三反、倉永くらながのうち「ほしさしの前」二反、木原きわら(現清武町)のうち一反、富吉とみよし(現宮崎市)のうち四反、飯田いいだのうち二反の計田数三町・屋敷三ヵ所が社領として記される。


粟野神社
あわのじんじや

[現在地名]豊野町大字石字粟野平

祭神は天日方奇日方命。旧村社。

社地は東西一町一間、南北五二間一尺二寸、面積一町八畝一一歩。創立年月未詳、石村の産土神である。口碑によれば、天長二年(八二五)二月再建。貞観二年(八六〇)二月位階を賜り、永観二年(九八四)再建といわれ、応仁元年(一四六七)更に再建。「延喜式」神名帳記載の水内郡九座の一「粟野神社」ということであるが、従来青野明神あおのみようじんと称し、天明六年(一七八六)吉田家へ願い、神祇管領卜部朝臣良義から宗源宣旨によって「粟野神社」の社号を許された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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