神宮寺跡(読み)じんぐうじあと

日本歴史地名大系 「神宮寺跡」の解説

神宮寺跡
じんぐうじあと

[現在地名]大津市坂本本町

日吉山王社の神体山である八王子はちおうじ山の西渓にあり、根本神宮こんぽんじんぐう寺または神宮禅じんぐうぜん院とよばれたが、現在は山王三聖を祀る小さな祠があるのみ。創建は最澄の父三津首浄足(百枝)が子を授かることを祈願、一七日間の悔過の行を修せんがため験地を得て草庵を建立したのに始まる。父浄足は至心に懺悔すると四日目の早朝に至って夢に好相を感じ子を授かったのが最澄であったという(叡山大師伝)。のち最澄自身も、父の教誘によりその悔過の期日満たざるを補うため登叡前に神宮禅院に籠って修行懺悔し、香炉の中より一粒の仏舎利を感見したと伝える。


神宮寺跡
じんぐうじあと

[現在地名]諏訪市中洲 神宮寺

諏訪大社上社の別当寺で、上社本宮の南にあった。上社が仏教と深い関係にあったことは、中世の「諏訪効験」や「諏方大明神画詞」の特に縁起の部分に明らかである。享保一八年(一七三三)の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には、上社周辺の仏教関係のものとして、神宮寺・五重塔・普賢堂・神洞院・如法院などがみえ、本宮の境内にも、如法堂・蓮池院があり、内陣に鉄塔があった。

神宮寺は真言宗で、山号は普賢神変山。


神宮寺跡
じんぐうじあと

吉備津神社の境内に存在した。当社関係の文献に「本地堂」とみえるものが神宮寺のことか。「三代実録」元慶元年(八七七)一二月二一日条に「美濃・備中両国、供奉大嘗会悠紀・主基、仍免当年庸米、 詔以正税、充神宮寺并諸家封戸庸」とある。ここにいう封戸をもつ備中の神宮寺とは、この当時の備中国に吉備津宮に匹敵する大社はないから、同宮の神宮寺であると考えられる。その後の神宮寺の動勢は不明。享保(一七一六―三六)頃作成の「吉備津宮両部之古法并申伝記」(備中誌)などによると、「神宮寺本堂は本宮と一度に焼失仕候由申伝へ候」と、吉備津神社の本宮社が炎上した天正年間(一五七三―九二)、神宮寺も類焼、それ以後、当寺は再建されなかった。


神宮寺跡
じんぐうじあと

[現在地名]豊野町大字石字粟野

いし村のほぼ中央、粟野あわの神社の東地続きに神宮寺じんぐうじとよぶ地があり、そこに間口・奥行とも一一・四メートル、五間・五面の建物の跡を示す礎石群があり、近隣に五輪塔が散在する。これについては、粟野神社の神宮寺跡であるとし「延喜式」神名帳記載の水内郡九座のうちの一つ粟野神社の跡であることの有力な証左とする説があり、これに対し現粟野神社の社地がそれほど古い位置ともみられないので、神宮寺は神護寺じんごじの訛ったものと考えられ、鎌倉時代に存した信州石村郷神護寺の跡とする説がある(豊野町誌・上水内郡誌)


神宮寺跡
じんぐうじあと

[現在地名]総和町高野 榎戸

神宮寺は当初は本田坪の寺跡ほんでんつぼのてらあとというところにあり、のち八幡神社の前に移ったと伝えるが、寺院遺構はみられない。天和三年(一六八三)の下総国葛飾郡下川辺荘高野村神宮寺由緒之事写によれば真言宗で八幡山と号し、金剛こんごう坊とも称した。


神宮寺跡
じんぐうじあと

[現在地名]楠町大字東吉部

吉部きべ八幡宮の傍らにあった同八幡宮の旧社坊。真言宗で鈴雲山と号し、本尊は如意輪観音

「注進案」によれば、弘長元年(一二六一)玉雄を開基として領主物部(厚東)武村が建立したのに始まる。その後村内の寺尾てらお(吉部)八幡宮の社役を勤め、江戸時代には厚狭郡中の祈願所として毎年正月・五月・九月に二夜三日の護摩行を執行、祈祷料として米二石を与えられていたという。


神宮寺跡
じんぐうじあと

賀茂山口かもやまぐち神社の東にあった上賀茂社の神宮寺で、明治初年の廃仏毀釈のため廃絶。現在森の中に基壇と礎石三個が残る。弘仁一一年(八二〇)嵯峨天皇の勅による創建と伝える。度々焼失したらしく、「百錬抄」康治二年(一一四三)三月一六日条に「賀茂神宮寺供養、先年炎上之後所造立也」、「続史愚抄」応安六年(一三七三)一一月三日条にも「今夜、賀茂神宮寺及一切経蔵・鐘楼三所等火、自観音堂火起云」などとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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