改訂新版 世界大百科事典 「精進供御人」の意味・わかりやすい解説
精進供御人 (しょうじんくごにん)
中世,精進食品を天皇に備進した供御人。そのための菜園である精進御薗(みその)には,検校職(けんぎようしき),惣官職が補任されて供御人を統率した。精進供御人の中には,黄瓜(きうり)供御人,蓮根(れんこん)供御人,竹子(たけのこ)供御人,唐納豆(からなつとう)供御人,蒟蒻(こんにやく)供御人,唐粉(からこ)供御人,索麵(そうめん)供御人などが含まれたと思われ,その源流は,律令制下宮内省で蔬菜樹果のことをつかさどった園池司(園戸)や,菓餅庶食のことをつかさどった大膳職(膳部)にあったらしい。
供御人身分の編成に大きな働きのあったのは,代々御厨子所(みずしどころ)預を務めた地下官人紀氏で,12世紀後期,〈都鄙供御人〉の交易分をもって日次(ひなみ)供御を備進させることに成功し,1274年(文永11)には,〈三条以南魚鳥精進菓子已下交易輩〉を,すべて御厨子所供御人として沙汰すべし,との蔵人所牒を獲得している。ただ供御人の進止(支配)権をめぐっては,内蔵頭(くらのかみ)が御厨子所別当を兼ねる例となっていたことから,内蔵寮との間に係争が繰り返された。
個々の精進供御人についてみると,黄瓜供御人は大和国黄瓜御薗から毎年6月に上洛して黄瓜を備進することとなっており,蓮根供御人は洛中町面より毎月30本を内蔵寮に進上した。竹子供御人は宇治木幡を本拠として近江大津などへ行商する者があった。唐納豆は洛中寺院などを中心に製造されていたのであろう。蒟蒻供御人については,13世紀末の〈御厨子所番衆等申状〉で,蒟蒻供御人の中に,大和の多武峰墓守とか辰市住人(神人(じにん)であろう)とか称して,御厨子所の下知に背き供御を備進しない者があると訴えているのが注目される。唐粉供御人についても,諸方の妨げを停止すべきことを訴えた鎌倉前期の〈御厨子所御精進唐粉沙汰人中原末弘〉の言上状がある。なお,唐粉供御人,索麵供御人には四府駕輿丁(かよちよう)座に属する者があったが,これは,897年(寛平9)四衛府による日次御贄(ひなみみにえ)の制を定め,〈若御精進者……以雑菜進之〉としたのに淵源すると考えられる。
執筆者:丹生谷 哲一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報