供御とは本来天皇の食事を指すが,中世,食品のみならず手工業製品など,天皇の使用する種々の品物を貢納した人,またはその集団を供御人と呼んだ。律令制下,諸官司に属した海民,山民,工人などは,律令体制の弛緩とともに,寄人(よりうど),作手(つくて)などといわれる独自な非農業民集団となり,生産物を官司に貢納するとともに,交易にも従事していた。11世紀後半から12世紀にかけて,これらの非農業民のうち,その生産物を広域的に交易する商工民は,供御人の地位を与えられ,給免田畑,在家を国家的に保証されるようになった。この給免田を中心に彼らの開発した田畑は,御厨(みくりや),御野(みの),御薗(みその)といわれたが,供御人たち自身はそこを根拠に,津,泊,関などでの交通税免除の特権を得て諸国を自由に遍歴して交易を行い,その上分(じようぶん)や製品を年貢,公事(くじ)として官司に貢納した(その種類については表参照)。各官司は年預(ねんよ)を通じて供御人を支配し,供御人集団は番に編成されて番頭がおかれている場合もあるが,全体の統轄者は惣官・沙汰者といわれた。灯炉供御人の年預が蔵人所小舎人(こどねり)だったように,年預は下級官人が世襲し,惣官は下級の官位を持つ武士的な人々が多いが,精進御薗供御人の惣官は下級の女官,女孺(によじゆ)であり,ときに女性がなる場合もありえた。供御人も粟津橋本供御人が女商人,唐粉(からこ)供御人が閉女(とじめ)といわれたように,女性を含むことが少なくないが,それ自体武装した非農業民集団であった。
集団の成員は,平等の権利をもち,若干の脇,脇住を従えた本供御人で,その定数は交名(きようみよう)(交名注文)で確定された。粟津橋本供御人が六角町に四宇(軒)の店棚をもったように,供御人のなかには早くから京に住むものもあったが,南北朝時代以降遍歴の範囲は狭まり,京都,諸国の国府,市津などに定着,居住し,商工業者として都市民になるものが増加した。業種の分化も著しく,供御人組織はしだいに解体,なかには種々の理由から卑賤視される人々もでてくる。しかし内蔵頭の山科家,造酒正(みきのかみ)・大炊頭(おおいのかみ)の中原氏のように,官司の長官を世襲する公家は京,畿内近国を中心に供御人の流れをくむ商工業者に対する支配を戦国時代を通じて保持し,これが中世の天皇,公家経済の最後の支柱となったのである。
なお,特定の天皇に成立の由来を求めた供御人の所伝は,南北朝時代以降しだいに伝説化するが,戦国時代に入ると,薬売や鋳物師(いもじ)はそれにもとづく偽綸旨,偽蔵人所牒などを作り,それを営業上の特権を保つための根拠としている。江戸時代になって供御人が消滅したのちにも,こうした伝説は職能の起源を語る職人の由緒書や偽文書の中に生きつづけ,近世の職人とその組織のあり方にも,実質的な影響を及ぼしているのである。江戸時代,職人が受領名の授与などを通じて,天皇・公家とのかかわりを保ちつづけた淵源は,ここまでさかのぼって考えなくてはならない。
執筆者:網野 善彦
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朝廷に属し、天皇の飲食物を貢納する人々。禁裏(きんり)供御人ともいう。律令(りつりょう)制の贄人(にえびと)の流れをくみ、畿内(きない)、近江(おうみ)の6か国の日次御贄貢進(ひなみみにえこうしん)を業とし、しだいに特権を公認されながら天皇の私経済を担う役割を果たした。近江国筑摩御厨(ちくまみくりや)では醤鮒(ひしおのふな)、鮨鮒(すしのふな)、味塩鮒(あじしおのふな)などを中心に内膳司(ないぜんし)を通じ朝廷に貢納された。平安時代後期から贄人にかわって供御人と称されるようになり、近江国粟津橋本(あわづはしもと)供御人、同菅浦(すがうら)供御人は琵琶(びわ)湖での漁労に携わるとともに、湖上の舟運、廻船(かいせん)に従事しており、摂津国今宮(いまみや)供御人も同様である。御厨、御園(みその)の供御、供祭(ぐさい)人は、多くが荘園(しょうえん)制の発展に伴い年貢、公事(くじ)を免除された名主、百姓身分の者であったが、大部分は非農業的活動に従事していたと考えられる。供御人の多くは御厨子所(みずしどころ)供御人であったが、内蔵頭(くらのかみ)が御厨子所別当(べっとう)を兼ねるに及び内蔵寮の支配下に入り、山科(やましな)家がこれを世襲した結果、山科家にも属することとなった。彼らは天皇の名による諸国自由通行、交易の特権や、特定の根拠地を軸に、土地支配と結び付かない人的関係に基づくことによって自由にいくつかの権門に兼ね仕えている。鎌倉時代中期以降の商品流通の進展のなかで、商売札によって販売独占権を得た者は商業座の組織、性格をあわせ有し、生魚、鳥、鮎(あゆ)、栗(くり)、菓子、竹の子などの食物から炭、火鉢、竹、水銀、灯籠(とうろう)などの手工業品にまで及ぶ種々の産物を貢納するようになった。
[江部純一]
禁裏供御人とも。中世,天皇の供御(食物)を貢納した職能民。古代の贄人(にえひと)に由来する。内蔵(くら)寮御厨子所(みずしどころ)や主殿(とのも)寮・大炊(おおい)寮などの朝廷官衙に多様な供御人が分属した。供御貢進のかわりに国家課役の免除,関所等の自由通行権,営業権が与えられた。中世後期,天皇家の勢力低下とともにその特権が失われ,貢納も衰退し,近世に入って消滅した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…彼らの活動は,原始時代から徐々に進展してきた日本列島各地の浦浜の開発を新たな段階に推し進めた。彼らは,王家の供御人(くごにん)または有力神社の神人(じにん)などの身分を帯び,例えば鴨社神人が〈櫓(ろ)棹(さお)杵(かし)の通路の浜は当社供祭所たるべし〉と号したような特権的意識をもって,諸国の浦浜に進出していったのである。そこに創出された荘園制下の中世漁村の歴史的特徴は次の二つにまとめられる。…
…中世,精進食品を天皇に備進した供御人。そのための菜園である精進御薗(みその)には,検校職(けんぎようしき),惣官職が補任されて供御人を統率した。…
…諸司領荘保には,こうして成立した便補保に由来するものが少なくない。しかし料国制の衰退と土地収益の減退する趨勢のもとで,これを補う重要な役割を果たしたのが,供御人並びに商人に対する課税と率分銭(そつぶんせん)(関銭)である。鎌倉中期の《平戸記》によると,当時内蔵寮や内膳司は,京中で〈魚鳥交易〉の上分を徴して供御に備え,その他の官司も〈和市交易の課役〉を徴収していたという。…
…しかしこうした国郡の制度の上に立つ天皇の支配は北海道,沖縄にはもとよりまったく及ばず,東北北部にその支配が及ぶのもかなり後のことであった。
[供御人支配と公家新制]
律令制の弛緩,変質,荘園公領制の形成とともに,この二つの支柱のあり方も大きく変化する。権門,寺社の占取によって狭められた山野河海に対する支配は,この時期には交通路に対する支配として機能するようになり,天皇はそこをおもな活動の舞台とする商工民,芸能民などの非農業民に対し,天皇家の直属機関として設置された蔵人所(くろうどどころ),検非違使(けびいし)等を通じてその支配を及ぼした。…
… しかし延喜の贄貢進の体制は,11世紀後半以降また大きく転換する。1070年(延久2)筑摩御厨は停止され,このころまでに漁労,狩猟だけでなく,魚鳥の商人,廻船人として,京都をはじめ広域的に遍歴,交易を行うようになっていた贄人たちを,天皇家は供御人とし,諸国の自由通行権を保証して再組織していく。勢多御厨の流れをくむ粟津橋本供御人,御雉所に統轄された鷹飼すなわち雉供御人,少しおくれて湖北の菅浦(すがうら)供御人が湖で活動するようになるが,一方,大寺社もまた海民を独自に組織すべく競合し,延暦寺は大津,坂本を中心に借上(かしあげ)として各地に広く活動した日吉神人(ひえじにん)を組織,園城寺も大津に進出する。…
… 1069年(延久1)に贄貢進制の決定的な改革が行われ,諸国の贄は御厨子所預(あずかり)の管理する御厨,御薗(みその)の負担するところとなった。これと並行して,贄人たちは供御人(くごにん)と呼ばれるようになり,荘園における下司をはじめとする職人(しきにん)と同様に在家,免田を与えられるようになり,御厨には四至(しいし)が定められるようになった。こうして御厨は急速に荘園としての実態をもつようになり,平安末には名称は御厨というものの,実態は荘園と同質の存在となっていった。…
…なおこの時代将軍足利義満が国内を統一しながら自国通貨によらず明銭を通貨としたのは,中国銭が北アフリカから東南アジア,東アジアと,回教・仏教圏に広く国際通貨として流通していたためである。一大消費都市である京都,奈良,堺を抱える畿内経済の円滑化をはかるために,近江坂本,京都下京には〈米場〉と呼ばれる米穀取引市場が成立し,なお魚介類については山城淀に魚市が,近江粟津と京都六角町には粟津供御人(あわづくごにん)(粟津橋本供御人)による生鮮魚介,塩,塩合物(しおあいもの)を中心とした日常雑貨の一大卸売市場が形成され,供御人はさながら総合商社の販売人のごとく全国を自由通行して売りさばいた。また石清水八幡の荘園から運上された荏胡麻(えごま)は山城大山崎油座で製油され,灯油として全国に独占販売され,各地の夜に光明をもたらし,文化の発展に寄与した。…
…備前国岡山の《池田家履歴略記》,出雲国松江松平家の《烈士録》,豪商の《三年寄由緒》,長崎貿易に関する《糸割符(いとわつぷ)由緒書》など,事例が少なくない。【金井 円】
[職人の由緒書]
平安時代末期から鎌倉時代にかけて,鋳物師(いもじ)(灯炉供御人(くごにん)),生魚商人(津江・粟津橋本御厨(みくりや)供御人など),地黄煎売(じおうせんうり)(地黄御薗(みその)供御人)など各種の供御人は,その特権の保証されたときの時期と天皇を訴訟などの際に強調し,その系譜の確かなことを誇っているが,これは事実であることが多い。しかし室町時代以後,この特権を保証していた天皇の実質的な力が弱化するとともに,この由来はしだいに伝説化し,不正確になり,正確な文書にも〈天照大神〉〈神武御門(みかど)〉などが登場するとともに,こうした伝説に基づく由緒書が書かれ,偽文書(ぎもんじよ)が作成されるようになってくる。…
※「供御人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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