改訂新版 世界大百科事典 「四府駕輿丁座」の意味・わかりやすい解説
四府駕輿丁座 (しふのかよちょうざ)
四府(左右近衛府,左右兵衛府)に属した駕輿丁が組織した商業の座の総称。米,酒,みそ,材木,引物,鍛冶炭,すき柄,白布,茜,錦,絹,呉服,紙折敷(おしき),薬,唐物,馬,古物,鳥,古鉄などの商品を扱った。近衛府・兵衛府は内裏の警固や天皇の行幸の警備を任務としており,《延喜式》によると,左右近衛府には各100人,左右兵衛府には各50人の駕輿丁が所属することになっていた。ところが律令制の変容に伴い彼らの存在形態も変化した。鎌倉時代,彼らは臨時課役免除の特権を持っていたが,寛喜の飢饉で在京の右近府駕輿丁のほとんどが餓死し,近国の駕輿丁がその代りを務めたことが知られる。また駕輿丁集団も四府を離れて外記(げき)と官務に直属し,これらの官職を世襲した中原家・小槻(おづき)家の支配を受けるようになっていた。このころ駕輿丁たちはみずからの職務に服する一方で商業活動を行っていたらしい。後に訴訟のたびに諸役免除が強硬に主張されることからみて,彼らがこの段階の京都の商業の中心を担っていたと考えられる。
しかし鎌倉時代末以降,商品流通が活発になるに従って,その利益をめぐってさまざまなトラブルが生じた。当時,真綿の商売を独占していた祇園社綿座の構成員の中には左右近衛府の駕輿丁を兼ねる者もいた。左近府駕輿丁が毎年800文の役銭を納入していたのに対して,右近府駕輿丁は無沙汰であったという記録が残っている。同じころ駕輿丁たちは,山科家(竹商売),三条家(紺持売),中御門家(そうめん売)などと争っている。これらの訴訟を通じて四府の駕輿丁が諸役免除の特権を持つことが広く認められるようになり,その特権を求めて商人たちは争って駕輿丁の身分を得ようとした。そのためいくつもの身分を兼ねる商人が生まれ,商工業者の組織は複雑となる一方であった。そうした中で,以前の編成とは異なった商品ごとの組織が生まれはじめた。その代表は米座である。15世紀前半,四府駕輿丁に属する120人余の米売が穀倉院に対する課役を請け負っていたが,約100年後に彼らは上下京の米座のうち下京の米座を構成していた。また三条,五条,七条の3ヵ所でオオカミ,猿,ウサギなどを商う鳥座のように,それぞれ内蔵寮,長橋局,四府駕輿丁に属している例もある。本所を異にした商工業者の間でさえも同業者の組織化が進んでいった。
織田信長,豊臣秀吉の時代にこの傾向はいっそう推し進められた。商工業者たちがさまざまな本所と結んでいた契約を解消させ,彼らを統一権力の直接支配のもとに置いたのである。四府駕輿丁も,禁裏の駕輿奉仕をする者を除いて他は解散させられたと考えられる。17世紀中ごろの駕輿丁座は,府ごとに1名置かれた兄部(このこうべ)を含めて72人から構成されている。このことから逆に最盛時の四府駕輿丁座がいかに多くの人数を擁していたかを想像することができる。
執筆者:馬田 綾子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報