細島湊(読み)ほそしまみなと

日本歴史地名大系 「細島湊」の解説

細島湊
ほそしまみなと

[現在地名]日向市細島

細島半島にある湊。入江の深い天然の良港で、美々津みみつ湊とともに大隅・薩摩方面と瀬戸内海とを往還する船の中継港として栄え、日明貿易の船やポルトガル船も立寄ったという。

〔中世〕

長享三年(一四八九)に日蓮宗本山妙本みようほん(現京都市中京区)一一世となった日要は当地出身で、晩年に細島に本要ほんよう寺を開いている(「当門徒前後案内置文」定善寺文書)。日要の活動も瀬戸内海から日向への海路と深く結び付いていた。天正六年(一五七八)四月、塩見しおみ一帯まで進出した大友義統は、海賊衆で日知屋ひちや城に在陣していた薬師寺兵庫守に対して、日向行きの兵船の準備をしてくれたことを感謝しており(同年五月三日「大友義統感状」薬師寺文書)、大友家の水軍である薬師寺氏が細島湊を掌握していた。しかし同年一一月以降塩見・日知屋、門川かどがわ(現門川町)一帯を手中に入れた島津氏の支配下に置かれ、薩摩と京都の中継港として物資や情報の集積する場所となった。天正一二年五月二一日、肝付兼寛は上洛に際して当湊か美々津湊から出船する予定だと上井覚兼に伝えている。翌一三年四月一一日、日知屋城など三ヵ城を領知する吉利忠澄のもとを訪ねた覚兼は、細島に来ていた播磨国室津むろつ(現兵庫県御津町)船頭から杉原紙二〇帖などを贈られ、同年八月一〇日には豊臣秀吉と長宗我部元親の和睦うわさが細島まで届いている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報