日本歴史地名大系 「細江村」の解説 細江村ほそえむら 宮崎県:宮崎市細江村[現在地名]宮崎市細江生目(いきめ)村の西に位置する。宮崎郡に属し、北西は諸県(もろかた)郡倉永(くらなが)村(現高岡町)、北は長嶺(ながみね)村。鎌倉・室町時代には細江別符とよばれた。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録には細江三〇町とあり、高橋元種領となっている。慶長五年(一六〇〇)一〇月一日、高橋氏家臣権藤種盛父子が在番する宮崎城を攻め落した伊東氏家臣稲津掃部助は、同城に在城することとし細江など五ヵ所に陣を張った。勢いに乗った伊東勢は関ヶ原の戦から帰国途中の島津勢と合戦となり、同月九日には穆佐(むかさ)から襲来した島津勢に対し、当地から田野衆が打って出ている。一一月二〇日には稲津因幡守らの軍勢が細江表から穆佐城(現高岡町)攻撃に向かっている(以上「日向記」)。慶長一四年領主高橋氏により検地が行われた(正徳二年「村明細帳」細江公民館蔵)。領主の変遷は延享四年(一七四七)までは上別府(かみべつぷ)村と同じ。 細江村ほそえむら 兵庫県:姫路市旧飾磨市地区細江村[現在地名]姫路市飾磨区細江(しかまくほそえ)飾東(しきとう)郡に所属。野田(のだ)川下流右岸と船場(せんば)川下流左岸の間に位置し、北は恵美酒(えびす)村。江戸時代を通して姫路藩領。飾万(しかま)津在方二村のうちの南寄りの村で、代官の支配下にあった。村高は郷帳類にはみえず、飾万津全体の石高に含まれるが、天保(一八三〇―四四)頃の領内郷村高覚書(前橋市立図書館蔵酒井家資料)に「細江分」として本田高九二八石余・新田高一〇八石余とある。 細江村ほそえむら 滋賀県:東浅井郡びわ町細江村[現在地名]びわ町細江曾根(そね)村の南西に位置。北東端を北国街道が通り南端は湖に臨む。「日本霊異記」にみえる「坂田遠江」は当地で、細江はその遺称という。中世は細江庄に属したと考えられるが、明応七年(一四九八)一一月二一日の六角家奉行人連署奉書(永源寺文書)によれば、「南北郷内山上永安寺領之下地」が臨済宗妙心寺派安楽(あんらく)寺の東にあった。細江河内守正剛がいたと伝える細江館の跡は未詳だが、「輿地志略」に細江秀時・細井(ママ)左馬助ら、「大洞弁天古城主名札」に細江村屋敷主細江左馬介の名がみえる。寛永石高帳に村名がみえ高九〇三石余で彦根藩領。 細江村ほそえむら 福井県:福井市旧足羽郡地区細江村[現在地名]福井市上細江(かみほそえ)町・下細江(しもほそえ)町足羽川と文殊(もんじゆ)山系との間に位置し、北は上六条(かみろくじよう)村、南は徳光(とくみつ)村、西は上河北(かみこぎた)村・上莇生田(かみあぞだ)村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「細江郷」として高一七二三・九六一石が記され、正保郷帳では「細江上下村」とあり、田方一千六四九石余・畠方七四石余。元禄郷帳以降、上・下の二村に分れる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by